写真2)阿賀野市石船戸東遺跡の井戸から出た鎌倉時代の丸木舟
写真3)佐渡では金銀分離に塩を使った
レンタカー練習を兼ねて、新潟シリーズ第三弾、今日のメインは秋葉区にある新潟県埋蔵文化財センターの「佐渡金山」に関する講演会―残念ながら今年は世界遺産登録リストに入れなかった(青森北海道の縄文遺跡群になったらしい)が、佐渡金山に関して知る良い機会となった。その前に燕三条で下車してレンタカーを借りる。当初準備された車でナビを捜査したところ、不具合があり、車を変えてもらう。ナビの操作を教えてもらい、しばらく店のスタッフと悪戦苦闘、ようやく今日のポイントを入力し、出発。最初は北陸道を巻で降りて、西蒲区福井に向かう。目的地の山谷古墳はナビでは出ないので、住所で近くまで行き、そこから道標を探して接近。福井神社の近くの山の中なのだが、その福井神社もナビでは出ないので地図を見ながら探す。位置と近くまで来て果たせなかったので今回何としても探したい。一度道を誤り手前で左折したので山のふもとまで出て戻る。しばらく山すそを走ると神社がある。道標があるので降りて境内を進むが上り道はない。見ると神社の境にリンドウがあるので、車に戻ってリンドウを進むと、入り口が見えた。下車して階段を上り、二度目の階段は90度曲がり墳頂部に出る。前回の
菖蒲塚古墳とは異なり、前方後円墳の形がよく残っている。全長37m、4世紀中ごろの古墳で主体部から割竹型木棺の中に下玉、ガラス児玉、鉄器などが発見され、能登半島と強いつながりのある地元首長の墓とされているようだ。
予定を145分ほどオーバーし、急いで新潟市文化財センターまで走って、山谷古墳や菖蒲塚古墳出土品を見る。展示替えの作業中で、南赤坂遺跡の続縄文土器(後北式)は見られなかったのは残念。時間が押しているので、急いで秋葉区の埋蔵文化財センターに向かう。なんとか11時前について、先に少しだけ手前の古津八幡山の展示館の企画展「古代の祭祀」展を見て、県埋文に戻る。11時からの「丸木舟の考古学」展の展示解説を聞く。参加者は私一人。質問をしながらたっぷり解説を聞くことができる。多くの丸木舟は古代や中世の井戸材として使われていたもの。
井戸は新石器時代のテル・セクル・アルアヘイマル遺跡から発見された井戸は約9000年前のもので、浄水目的では最古の例らしい。 古い井戸は、中国とドイツにもあり、約7000年前の河姆渡(かぼと)遺跡の中に井戸があったようだ。 日本では弥生前期の終わりごろ、北九州の佐賀平野・筑紫平野の低地の遺跡から発見されている。おそらく稲作とともに伝来した技術で、縄文時代は湧き水利用が主で井戸はなかった。縄文時代の丸木舟は低湿地の遺構などから出土するが、弥生時代では準構造船とみられる絵画も見られるが実物は出ていない。古墳時代以降、井戸の枠に再利用された丸木舟の出土例が多くなり、今回の展示の中心はこの石船戸東遺跡出土の鎌倉時代の丸木舟のようだ。推定7m、大きくて欠損が少ない美しい船だ。よく見ると様々な穴が開いている。鋭利な刃物で四角く開けた穴は井戸設置のための井戸枠を四角く囲うため、丸木舟を四つに分割し、それを固定するための固定材を挿入するための井戸枠制作時に開けられた穴だ。さらに船の側面の恥に開けられた穴がある。穴として残っているものや上側が壊れているものーーこれらは形状や壊れ方から櫂(櫓) を挿入していた穴と考えられるそうだ。穴が壊れると隣に新しい穴をあけている。また船底にも小さな穴が見える。これらは船底に割れ目ができたときの補修穴ではないかという。大きな丸木舟には巨大な木材が必要で、中世にもなるとそれを獲得するのが大変で、少し壊れても補修して使うのはごく自然だ。昨年、大阪の弥生博物館で糸島氏の潤地頭給遺跡出土のやはり井戸枠転用の丸木舟の準構造船の部材を見ることができた。部材を緊縛した痕跡を見たが、今回の新潟の中世や古墳古代の船材では、そうした部材を緊縛したり、かすがいでとんうぇたりする痕跡は見られない。どうやら、河口付近の港と集落を往復するのに使われ、外洋に出るようなことには使われなかったのかもしれない。とすれば大きな船は必要でなく、また川や集落付近の小河川では浅いので大きな船は通行が難しい。新潟県内の丸木舟の出土は24、縄文時代では青田遺跡のひとつのみで、大半は古代から中世室町時代のものらしい。多くの潟湖や河川が縦横に走る新潟の低地では丸木舟なしには生活できないのだ。船材は縄文時代ではクリが多いが次第にスギの丸木舟が増えてくる。スギはどこでも生えるというものでなく、屋久杉のようなものもあれば富山県入善のサワ杉のような湿潤な低地のスギもある。太平洋側でも登呂遺跡などでは杉が使われていた。
また今回もう一つ力を入れたのは、丸木舟を漕ぐ櫂で、古代では練櫂や艫が出現し、その櫂の手元に取り付ける柄も出土している。艪を取り付ける穴が意外と小さく、折れないものか心配になるが、いざというときは替えの貝を常備しているのだろう。7mもある丸木舟は相当な重量物で、何事にも軽量化を心掛けたに違いない。日本の船は軽くて速いという朝鮮半島の記録もあるそうだ。船や棺に適した木材が豊富だったので朝鮮半島にも輸出されたのかもしれない。
展示解説の後、車内に戻り昼食を食べ、再び弥生の丘展示館で「古代の祭祀」展を見てから、埋文に戻り、午後の講演会会場に入る。新潟県が力を入れていた世界遺産登録に関しては今年は北海道青森の北の縄文に敗れて登録候補リストに入れず、無念の思いを抱く担当者のお話を聞くことになる。担当の県教育委員会の尾崎氏はもともと考古の専門家で日本国内外の鉱山遺跡などを調査し、佐渡金山の遺跡としての意味を詳細に検討し、資料を作成している。その執念が感じ取れる内容だった。佐渡金山といっても他の鉱山同様、様々な鉱山、集落、選鉱、精錬設備その他の複合体で、その多くが残されている点で他に類例を見ないようだ。多くの鉱山遺跡は古いものの上に新しいものが築かれるので、ふるいものが残されることが少ないという。鉱山の街並みが中心の鉱山関係の世界遺産が多いという。また金山といえば現在でも選鉱、精錬過程での水銀の使用で汚染問題などが心配されるが、日本では塩を使った金の分離技術が使われた。また欧州では中世のペストや気候悪化による餓死者の増加などの影響で労働力が不足し、水車や機械などp労働力不足を補う技術が必要とされたことが産業革命につながったが、人口の多い日本やアジアではそうした必要がなく、技術発展というのは必要のある所で起こるという。日本の鉱山事業が遅れたものというのでなく、必要がなかったために古い技術が残ったというもの。短い時間だったが鉱山開発や技術の歴史と人々の暮らしを考える良い機会だった。秋葉区から燕三条まで、今回は何も問題なくレンタカーを返却できたので一安心。
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