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写真2)三宅島ココマ遺跡のオオツタノハ
写真3)三浦半島との交流を示すココマ遺跡の弥生土器
現在、多摩センターにある東京都埋蔵文化財センターでは、「蒼海をわたる人々」と題した伊豆諸島の考古展を来年春まで開催している。その記念講演として「弥生人島に渡る」という東京大学考古学教室の杉山浩平氏の講演会が開催された。
1)暑気の歴史
伊豆諸島の考古学はまず明治時代の坪井正五郎と鳥居龍蔵の伊豆大島の火山灰下の遺跡調査における黒曜石石器の発見から始まる。さらに各地で出土する黒曜石石器の産地同定の研究が始まり、専業的な交易集団の推定も論じられた。戦後には東京都教育委員会と伊豆諸島文化財総合調査が行われ、明治大学の後藤守一氏を中心とする明治大学による伊豆諸島の遺跡分布調査も行われた。(利島ケッケイ山遺跡・三宅島坊田遺跡・ココマノコシ遺跡など)――縄文時代早期から人類の生活痕跡が明らかになっている。その後、昭和40年代の東京都遺跡分布調査会、50年代の都教育委員会、國學院大學(中世罪石調査)などが続く。
2)橋口尚武の活動
橋口は高校教師として三宅高校に赴任し、多くの生徒を育成し、島民による遺跡調査を行う伊豆諸島考古学研究会を設立し、島しょ部の考古学調査に大きな足跡を残した。調査した主な遺跡は大石山遺跡(利島)、半坂遺跡(神津島)、坊田遺跡・西原B遺跡など(三宅島)、ゾウ遺跡(御蔵島)など多数。
こうした人々の活動の歴史を写真を使って分かりやすく説明された。
3)伊豆諸島の遺跡―火山と遺跡分布
東日本火山帯に属する伊豆諸島は火山灰の下に多くの遺跡が眠っている
伊豆大島―100〜150年に一度の大噴火―これまで発見された遺跡数35
利島―4千年〜8千年前の噴火が最後−13遺跡
新島―3200〜2大下年前と886年に大規模噴火―19遺跡
神津島―838年大噴火ー11遺跡
三宅島―20年おきに噴火―51遺跡
カルデラ形成は3千年前の八丁平噴火、カルデラ陥没は2千年前の噴火による
御蔵島―6千年前に噴火―4遺跡
八丈島―4千年前まで噴火―8遺跡
本土の遺跡との比較ー始まりは旧石器時代ー神津島の黒曜石を取りに来ている
最古の遺跡ー神津島空港遺跡
集落規模は数軒
大島以外は本土からあまり見えないが、大島屋三宅島まで来ると次の島が見えてくるーこうして次々と渡っていったらしいーー
4)黒曜石とオオツタノハ―島の宝ー
流紋岩室マグマが急冷されるとできる黒曜石ー火山地帯の伊豆箱根には多いがその中でも神津島の恩馳島は最高級品質で珍重された。弥生時代には三宅島が黒曜石流通の中心で、同時代の三浦半島の土器と似た土器が出土し、三浦半島とのつながりが強かったようだ。縄文時代は伊豆半島の見高遺跡があある。
オオツタノハー腕輪などの美しい装身具の原料となる弥生時奈子枯れのオオツタノハ貝は北緯30度以南にしか分布しないと考えられていた。北緯30度というと屋久島より南、伊豆諸島でいえば鳥島より南だ。しかし考古学者の忍沢成視の執念の調査で三宅島と御蔵島でオオツタノハ貝の生息を確認し、弥生人はこの貝と黒曜石を求めて海をわたったことが明らかに。会話は他の貝からも似たような会話を作ることができるが、オオツタノハは他の貝にはない光の反射による宝石のような輝きを持っている特別な貝だった。
5)三宅島ココマ遺跡と島に渡った弥生人の故地
オオツタノハ加工所があったと考えられるココマ遺跡を詳しく紹介、そこから出土する土器などからどのような人々が島に渡ってきたかを解明する。またそうした本土側の遺跡として三浦半島の白石洞窟を紹介し、オオツタノハを含む貝輪等の装身具の加工の様子や、弥生社会における農耕社会の誕生とそれ以外の海人社会などの専業化、分業化の始まりを考察する。
また展示では今回の焦点であった三宅島や神津島の出土品や三浦半島との関係なども一部展示され、伊豆諸島の遺跡から照らされる日本の農耕社会化の歩みを考えさせられる講演であり、展示だった。