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2019年02月07日 12:17博物館、展示会、美術館など全体に公開

2019年2月2日(土)北東北反蝦夷論の旅2)

写真1)耳取遺跡(4世紀)出土の続縄文土器(後北C2D式土器)
写真2)八戸の安藤昌益記念館で見た「自然真営道」
写真3)おいらせ町阿光坊古墳館における「末期古墳」のジオラマ

 昨年8月、函館から仙台まで、古墳・古代の北海道と北東北の人々の交流の実態をさぐるべく、各地の主要な遺跡や博物館を訪ねたが、今回、滝沢市埋蔵文化財センターで「古代エミシ社会の南北交流を考える―古墳文化と続縄文文化の接触」という展示を開催しているというので、出かけてみた。またおいらせ町の阿光坊古墳館では「ここまでわかった阿光坊古墳」という講演があるので、関連資料入手を含め、訪ねてみた。

 1月に65歳を越え、JR東日本の大人の休日クラブからジパングに切り替えた直後で、カードだけは届いたが、まだ会員手帳は届いておらず、どう使ってよいやらまだよくわかっておらず、とりあえず特急券だけ予約して、カード払いのつもりで東京駅に、しかし予約の時に間違えて復路で割引の乗車券付きのものを予約していて、みどりの窓口で、これは5%引きで、ジパングの30%引きに比べそんなので、やり直し、30%引きの乗車券などをゲット、やはり特急券の実予約して乗車券は窓口で割引で購入するのがよいと確認できた。会員手帳なしにカードだけで割引可能かよくわからなかったのだった。
 なんとか割引チケットを確保でき、6時32分発の始発のはやぶさに乗り込み、8時45分に盛岡到着、自宅から盛岡までは大阪より30分短く、価格は同等、仙台までならほぼ名古屋と同じだ。十分日帰りも可能な近さだーー!! 新幹線の窓から眺めると、雪景色はごく一部で、雪の少なさが目立つ――暖冬らしいーー。所々で雪が降っている。

 滝沢市までレンタカーも考えたが、冬道に自信はなくタクシーで行くことに。交渉すると親切な運転手で、待ち時間料金を取らずに2つの施設を回って盛岡まで戻ることになった―感謝。

 滝沢市埋蔵文化財センターまでは11?ほどで意外と近い(盛岡から20分強)。最後のセンター付近のみ道路にうっすらと雪が被っていたが、問題なし。

 展示室で滝沢市内の古墳時代の遺跡から出土した同時代の北海道の土器などの展示があった。事前に同センターに昨年行われた展示関連講演会の資料の余部を分けていただくことをお願いしていたためか、学芸員の井上さんが展示品の解説をしてくださり深謝!。井上さんは明大考古の出身で明治大学の弥生時代研究者で東北にも詳しい石川先生の話しになり、そういえば昨年はこの企画展関連で石川先生も講演されており、また白河の「まほろん」の「天王山式土器」展でも石川先生は講演されていた。

 まず耳取遺跡(4世紀)出土の甲北C2D式土器を見る(写真1)。口縁部の日本の突帯と刻目、そのすぐ下から始まる帯縄文と刺突文様など、この時期の続縄文土器の特徴を教えていただく。

 続いて仏沢?遺跡出土の後北C2D式土器と在地の塩釜式土器などが展示されている。次に大石渡?遺跡(4世紀)では、続縄文文化の土壙墓と焼土層から出土した後北C2D式土器や塩釜式土器、またそれより古い弥生時代の土器(赤穴式)や黒曜石(スクレーパー=皮なめし道具とされる)などが展示されている。

 また湯船沢?遺跡ではやや古いタイプの甲北C2D式土器=微隆起線のある土器も出ているという。さらに大釜館遺跡では5世紀初頭の東海地方の宇田型甕も出土、600?も離れた地域から入植者があったのだろうか?井上氏は愛知県の研究者にこの壺を見せて、宇田型に間違いないと確認したという。弥生時代後半は雨が多く、濃尾平野周辺は洪水などに見舞われ、水田が埋まって土地を追われ、新天地を目指して関東以北にも進出していたことはよく知られている。3世紀から5世紀は寒冷期で北海道の続縄文文化の人々が北東北に南下し、遺物を残している。
 また7世紀初頭(古墳終末期・飛鳥時代)の高柳遺跡では北大?式土器が出土している。続縄文文化の南下は3〜5世紀までで6世紀になるとその痕跡は消えてしまう。7世紀の遺物・北大?式土器の出土は北東北ではこの高柳遺跡に限られているようだ。

 5世紀まで南下していた北海道の続縄文人は大方姿を消し、北大?式土器の7世紀には北東北とはごくわずかな交流しかなくなったようだ。ただし北海道の人々は弥生時代後半(併行期)から鉄を求めて新潟など、鉄器を入手できる最前線に出向いて交流をしている。この6世紀という空白時代はどうしていたのだろうか?北大式土器時代、続縄文人はどのようにして鉄器を入手したのか?北海道の考古学を見るとある時期、地域には日本列島ではなく、北方のアムール川流域や沿海州起源の鉄器を入手した例があるようだが、詳細はよくわからない。7世紀には北東北には関東や北陸、中部地方から、あるいはそうした人々が一旦仙台平野などに移住し、さらに北に移動したのかもしれない。八戸やおいらせ町などの末期古墳周辺から出土する土器は直接関東などから来た人々でなく、宮城などの南部の特徴を持つ土器がより多く出ているようだ。昨年11月に開催された続縄文土器に関するシンポジウムの資料もいただき、いろいろ教えてくださった学芸員の井上さんにお礼を言って同じタクシーで盛岡に戻り「盛岡遺跡の学び館(盛岡市埋蔵文化財センター)を再訪。ここでは昨年の発掘成果の展示「盛岡を発掘する」を見る。「大新町遺跡」では縄文中期の大木式土器と円筒式土器の中間的折衷土器が出土し、東北の北と南の交流の接点の集落として繁栄したようだ。
 次の繋(つなぎ)?遺跡は、縄文中期の大集落だが、縄文前期から晩期まで長期間継続した集落らしい。
 西鹿渡遺跡は奈良時代(8世紀)の集落遺跡で、土師器や須恵器、紡錘車や玉類、砥石などが出ている。さらに細谷地遺跡は奈良から平安時代にかけての集落遺跡で200以上の竪穴建物が出土している。これらの集落はこの学び館や志波城址よりやや南東に位置している。志波城の造成は9世紀なので、西鹿渡遺跡はそれより100年前、これはおそらく当時の平城京の王権の支配権の外側だったかもしれない。志波城―平安時代になると、王権の最前線だったかもしれない。

 下永林遺跡では、かつて蝦夷の刀といわれる「蕨手刀」が発見されたという言い伝えがあり、最近の調査では古代の円形周溝墓や土壙墓の二種類の墳墓が検出されている。また向中野幅遺跡からは、縄文時代の落とし穴、平安時代の土坑、平安以降の溝などが検出されている。溝からは915年の十和田火山噴火による火山灰が検出されている。また周辺には江戸時代の「道明堤」というため池があったという。これらの情報からこの地域の周囲には平安時代以降、水田が広がっていたと推定できるようだ。

 また滝沢台地西辺部にある「赤袰遺跡」は平安後期【11世紀)の土師器焼成移行が発見されており、この周辺の役所や館、中世安部氏らに供給されていたと考えられ、さらなる発掘調査による詳細の解明が期待されているようだ。また近世の盛岡城址の発掘調査などや近代の煉瓦造り建物など様々な発掘調査が展示されている。

 常設展示を少し急ぎ足で見る。縄文中期中葉の大新町遺跡出土の線刻礫や大館町遺跡の縄文最大級の土器などが印象的、さらに縄文晩期の亀ヶ岡土器と大洞式土器の関係に関しての解説も興味深い。

 待たせてあったタクシーに戻り、盛岡駅まで戻り、親切なタクシードライバーにお礼を言って新幹線に乗り込み、12時過ぎに八戸に出る。最初の予定ではここで青い森鉄道で下田駅に移動してタクシーか徒歩で阿光坊古墳館に向かうつもりだったが、少し時間の余裕があることから、本八戸(八戸本来の中心)の近くにある「安藤昌益記念館」に立ち寄ることにする。タクシーに乗り込み、記念館に向かうが、運転手はこの八日町の八鶴酒造の一角にある試飲場の中にある記念館を知る人は少ないという。また新幹線八戸駅から本八戸に多くあるホテルに客を送迎すると、駅からかなり離れているのに驚く人が多いという。八戸の歴史を知らないからだ。八戸の中心は昔から本八戸(かつてはこれが本当の八戸駅で新幹線の駅名=元は尻内駅=を乗っ取られた!)
 
 12時25分頃、記念館(試飲所)に到着し、時間がないので10分ほど駆け足で展示を見ておいらせ町に行くつもりだったが、事前に電話をして開館を確認していたので、職員の女性がやってきておもむろに説明を始めた。

 安藤昌益に関しては10代のころ、ハーバートノーマンの「忘れられた思想家」や中央公論社の日本の名著シリーズの「安藤昌益」を読んだくらいで、すでに大まかなこと以外、詳しい内容は忘れている。女性はまず安藤昌益その人に関する史料を当時の八戸藩の日記(藩士や家老の治療の記録)などから昌益の町医者としての足跡を残している。主著「自然真営道」に関しては、

「安藤昌益の主著。題名は,自然なる世界の根元をなす〈真〉(または〈活真〉)が営む道,すなわち自然界の法則性を意味する。これを明らかにすることにより,人間の社会の現実がその法則に反していることを示し,自然なる状態に復帰することを通じて,健全な身体と健全な社会を実現する方法を説こうとしたものである。一面では医学書であるとともに,社会批判の書でもある。同じ題名で稿本と刊本との2種類がある。稿本は本文100巻92冊と大序巻1冊とから成る大部の書で,1899年ころ狩野亨吉によって発見されたが,関東大震災(1923)で大半を焼失し,現存するのは原本12巻12冊(東京大学総合図書館蔵)と,人相巻の写本3巻3冊(慶応義塾図書館蔵)である。」(世界大百科事典より)

解説の女性は八戸藩の日記や、昌益の家系図、自然真営道原本の複製を示しながら、安藤昌益の足跡や思想について次々と説明していく。10分くらいでざっと展示を見ておいらせ町へと考えていたのが結局30分近くも説明を聞いてしまう。余りに熱心な説明だったので途中で断り切れず、二階にも挙がって時間があれば40阜鉛のビデオもあるところだが、それらは次回にということで、13時10分前になって慌てて館を辞し、再びタクシーでおいらせ町に向かう。阿光坊古墳館の講演は13時半からで、何とか10分前に到着、阿光坊は二度目、前回は昨年8月で古墳の概要を見て歩いたが、今回は雪の下だ。

 阿光坊古墳に関してこれまでわかってきたことを館長の小谷地氏が話をした。今回は最初に阿光坊古墳群の発見、発掘調査、研究の歴史の概要を話され、次に当時の古墳周辺の人々の暮らし=衣食住=についてこれまでの調査で分かってきたことを話された。古墳自体に関しては、その規模や墳丘の造成の仕方など詳細が分析され、関東や中部地方、北陸などの群集墳などと比較検討されているようだ。小谷地氏がおいらせ町(当時は下田町)に就職して、昭和63年に最初に阿光坊6号墳など4基の発掘に携わり、最北の古墳群であることを確認したーーまだ当時は「末期古墳」という「蝦夷の墓」とされていたがーー??
 たとえば、関東の終末期古墳と比べて、大きさの大小はあるが関東の方が規模は小さくとも墳丘の高さはあるようで、平成元年〜2年の調査で、阿光坊の埋葬施設は地表の下にあり、墳丘は高くする必要がなかったことなど、南東北以南の古墳とは様々な違いもあるが、だからと言って北海道の続縄文人の土壙墓とはもっと大きな違いがあり、明らかに古墳文化の延長上にあるものだろうーー。さらに北の北海道の石狩低地には江別古墳群などやはり7世紀から9世紀にかけての「北海道式古墳(後藤守一の命名)」があり、おそらく古墳文化が北上して北海道の続縄文の人々と交易。交流をして栄えた北東北の古墳人が北海道にわたって築いた文化だったろう――そのインパクトが擦文文化を生んだといえるのではなかろうか?

 さらに阿光坊古墳の中のT2号墳や11号墳など、個々の古墳の埋葬施設の形状や特徴的な土坑などを検討し、類例を千葉県や九州に発見している研究も紹介し、阿光坊古墳を築いた人々の由来を推測する作業が様々あることを話された。ただし出土土器でいうと、直接他地域の土器が使われたというよりも宮城などの東北南部系の土器が多いので、移住者といっても築説でなくワンクッション置いている可能性もあるようだ。

 衣食住に関する官庁のお話は、多数出土する土錘から推定する麻などの撚糸作りから、機織り、当時の古墳文化の服=貫頭衣と袴のような衣装や履物を推定する。副葬品の蕨手刀のくっついていた布から絹製品と分かり、おそらく現地生産でなく王権中枢部か仙台平野まで進出した王権の役所などから絹が落ち込まれたと推定している。絹は最高級品でどこでもつくれるものではなかったろう。

 最後に発掘調査で明らかになった当時の食材―コメ、アワ、マメ、ソバ、ウリ、その他の野菜、ブドウ、モモ、クルミ、ホタテなどの魚介類、ウシ、ウマ、シカなどの動物の骨などが出ている。基本的には穀物類で入手可能なものを中心にそれらを蒸して主食とし、それに季節ごとに様々な食材を組み合わせて食べたのだろう。ただ北東北ではヤマセが吹くなど気候が農業には厳しいので、どこまで穀物を生産できたのか、まだ確実なことはわからない。

 また周辺遺跡の住居址に関してはかまど以外には住居内に陽を使った形跡がなく、どうやって暖を取ったのか、冬はさぞ寒かっただろうーー。住居址に関しては黒井峰遺跡のように火山灰ですっぽり覆われた集落が出てくれば解明が進むであろうが、東北では秋田の915年の火山噴火による火山灰に埋もれた片貝家ノ下遺跡(屋根付き住居など出土?)があり、その全容解明が待たれるという。

 阿光坊古墳被葬者とその関連集落の人々は、北海道とヤマト王権(都の貴族層あるいは東北出先の役人ら)との交易の最前線にあり、交易活動と馬の生産、農業などの生産活動をどのような割合で行っていたのか、まだまだ解明すべき課題は多い。


 またここでも昨年の講演会で北海道博物館の鈴木琢也氏、東海大学の松本建速氏らが講演しており、その資料のコピーもいただいた。館長にお礼を言ってタクシーに乗り込み、雪に埋もれた阿光坊古墳を一渡り撮影し、下田駅まで出て、青い森鉄道を待つ。しかし突風が発生し、大幅に列車が遅れており、冷汗をかいたが、快速が25府の暮れでやってきて八戸でハヤブサ乗り換えはぎりぎり間に合った。新幹線は八戸駅で青い森鉄道の到着を少しの間待っていたようだ。帰宅は8時前だったので、東北新幹線での日帰り旅行は十分可能と分かった。




 


 

 

 

 
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