第二章の武士の屋敷のところの冒頭で中世武士は方形居館を拠点としていたと考えられたが近年の発掘で土塁などを張り巡らせる防御的な施設が見られず溝をめぐらすだけの簡単な作りであったとある。具体的な事例が示されておらず例えば青森の高館などは12世紀に遡る防御的館との関係はどうなのか?12〜3世紀の本州はまだ武力闘争はまれだつたと言うことか?
数年前に訪問した青森県の高館跡は12世紀頃の防御制集落遺構ではなかったか?
こうした防御制集落と中世武士の屋敷やその後の方形居館などとの関係は如何に?
また古代末〜中世の寺社や王臣家の荘園と武士の荘園経営との関係はどうなっていたのか?など今回の展示には説明のなかった事柄が気になった。
展示を見てから図録を求めたがすでに売り切れで増刷が予定されるので予約した。質問紙を受付に提出し古代米のハヤシライスで腹を見たし館を出る。サクラソウ展は昨日終了だがくらしの植物苑に立ち寄り尋ねるとまだサクラソウ展が残っていたので見学。展示の管理をしていたとスタッフに話を聞くとまず四月に来ることを勧められた。すでに気温が上がって終盤で萎れている花も多い。来年は四月に行こう。
サクラソウの栽培の起源はもともと山野草として自制した赤城山麓などのものが利根川、荒川などを通じて種子が下流に運ばれ荒川下流域にサクラソウの自生地が広がり、江戸時代に桜の次にサクラソウの開花が有名になり江戸の名所となった。さらにその栽培や品種づくりが盛んになり江戸期にはすでに三百種以上の園芸種が成立したらしい。またシーボルトを通じて日本のサクラソウが伝わり欧州でも園芸種が作られたようだ。今では数千種もの品種が数えられるようだ。色も赤ピンクから素人、紫、さらには花弁のない変わり種もある。四月に来れば紫はもっと深い紫だったようで気温が上がり時間と共に赤っぽくなるようだ。
サクラソウのことを知ることが出来ラッキーだつたが次の佐倉市立美術館は連休後の休館だったので、京成佐倉駅手前の観光案内所にチャリを返却し、駅に戻った。
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