午後紀伊考古学研究会の西庄遺跡と海浜集落に関する研究会があるのでその前に紀伊風土記の丘に立ち寄る何度も足を運んでいるが、今回は律令国家成立前夜の特集だった。風土記の丘は、岩崎千塚古墳群の入り口にあり、四世紀末から七世紀にかけて継続した大規模な群集墳として、知られている。今回の展示はこの古墳群や同じ古墳群に含まれているがやや異質な忌部山古墳群をはじめ、和歌山県域から大和盆地、大阪湾一帯の遺跡を含め、律令国家に移行する前夜の状況を指し示す多くの出土品が展示され興味深い。古墳時代後期、6世紀前半には、大谷山22号墳や大日山35号墳など、墳長八十メートルを越える首長墳が造営され、この一帯は紀氏一族の墓域として知られる。石棚、石梁という特異な施設を持つ横穴式石室を特徴に持ち、6世紀末から七世紀初頭に前方後円墳築造が畿内では終わりを告げ、円墳や方墳が主流となる。この時期急成長して国政を牛耳った蘇我氏の系列は方墳を作り、大王家は八角墳などの墳墓を造営、紀ノ川流域では岩崎千塚タイプの古墳と大和盆地の横穴式石室のタイプに別れ、紀氏勢力が分断され、王権の影響力が強まったと考えられる。紀氏の中でも紀臣一族と紀直一族に別れ、臣は中央豪族として活躍し直の方は国造家として紀ノ川流域を治め、やがて日前、国懸神社の宮司として、生き残ってゆく。中央豪族の紀臣一族はやがて平安時代になると勢力が衰え、紀貫之ら、文人を輩出する。古墳時代が終わり、古代寺院が各地に創建され、それぞれの有力者が中央との繋がりで様々な寺院を創建し、寺院のプランも使われる瓦も様々なタイプに別れる。それぞれが別々のネットワークを持っていたのだろうか?
興味深いのは6世紀中頃に築造された船戸山三号墳で、岩橋型横穴式石室の2号石室からは、ミニチュア炊飯器や、銀製釧など、渡来系遺物を含む。大陸的な他界観を持つ渡来人かその子孫の墓と思われる。
寺院建築も川原寺タイプ、坂田寺タイプと、様々で面白い。やがて国分寺が造営され、火葬がはじまり、橋本市の名古曽墳墓から、奈良三彩の美しい臓骨器が出土している。律令国家前夜の紀ノ川流域の社会の変遷を考える中身の濃い展示であった。
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