古代律令国家により、官道として直線道路が作られる遥か以前から民衆の道は存在した。ここ二上山周辺は先史時代から、サヌカイト製石器の原料としてサヌカイトという石が採掘され、各地に運ばれたサヌカイト道があった、信州からは黒曜石も人とともにもたらされた。縄文時代では、関東系の石鏃とともに諸磯式などの土器がもたらされ、一方下田東遺跡からは、加曽利B1
式や芥川式活(山陰系)などの土器が見られ、人の移動を伴う活動の痕跡を示している。記紀によく出てくる大坂(大坂の関、大坂道)は、諸説あるが、穴山峠、竹内峠など、その時々でもっともよく使われた道を大坂と呼んだかもしれない。これらは旧石器時代から人々がサヌカイトを求めて利用した道でもあるが、五世紀以降河内とヤマトを繋ぐ重要性が増したために交通路の整備が王権により進められたと思われる。
また五世紀になると馬匹生産や新たな手工業生産が渡来人とともにやって来た。下田東遺跡出土の木製鞍、製塩土器などの馬関連品、鍛冶関連遺物など、時代の大きなうねりを感じさせる遺物がこの遺跡から発見されている。
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