これまで科学博物館などに行ったことは何度もあるが、東京博物館はほとんど行ったことがなく、存在も忘れていた。近夏の膝痛の後、自転車で遺跡巡りを何度か行い、各地の博物館を調べているうちに、東京博物館の平成館の考古資料の展示と、法隆寺宝物館の国宝、重文などの展示のことを知り、出かけることにした。
科学博物館の先に巨大な建物が見える。東京博物館は東洋館、本館、平成館、法隆寺宝物館など、多くの建物があり、国宝クラスの貴重な美術品、資料が所蔵され、展示されている。これを見ない手はないーー。
今日は時間があまりないので、急ぎ足で平成館の考古学資料展示―特に本州最西端の弥生文化 −響灘と山口・綾羅木郷遺跡−を見てその展示品の立派なことに驚いた。レプリカは少なく、ほとんど本物ばかりだ。修復技術のすごさに感心るばかりだ。弥生土器は縄文土器に比べて面白味には欠けるが、弥生土器のピークとみられる赤彩のある九州夜須町の出土品の土器はその洗練された形や色が美しい。
本州最西端・山口県綾羅木郷遺跡の展示に関して同博物館HPに以下のような説明がなされているー
「九州北西部地方の玄界灘(げんかいなだ)沿岸部は、日本列島で最初に稲作文化を受容した地域で、大陸製青銅器が数多く分布します。一方、響灘(ひびきなだ)と呼ばれる九州北東部地方から山口県の日本海側にも、弥生時代前期に多くの遺跡が形成され、なかでも下関地方は多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)・有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん)などが出土し、朝鮮半島から伝わった大陸製青銅器の主要な分布圏の東限として知られています。
多数の巨大な袋状貯蔵穴で有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡は、さまざまな土器・石器・装身具や食料関係遺物が出土し、前期から中期にかけての典型的な農耕集落遺跡として有名です。
美しい文様の綾羅木郷式土器は、響灘沿岸部から主に山陰地方と瀬戸内海西部地方に分布し、強く張る肩部と貝殻で施された羽状文様(うじょうもんよう)や山形重弧文(やまがたじゅうこもん)などが特徴です。また、韓国・青銅器時代の玉類に類似した勾玉(まがたま)類や各種の信仰関係遺物などをはじめ、日本海側の前期弥生文化に特徴的な土笛(つちぶえ)の出土は、大陸伝来の稲作農耕文化が本州などの東へ伝播するルート上で、綾羅木郷遺跡が交流の拠点的な位置を占めていたことを物語っています。
本特集陳列は平成25年度考古相互貸借事業によるもので、特色ある本州最西端の弥生文化を下関市立考古博物館所蔵の出土品で紹介します。」
残念ながら法隆寺宝物館のガイドツアーの時間が迫っていたので、平成館を出て宝物館に向かった。宝物館では数名のガイド(博物館ボランティア)と10数名の参加者が玄関入り口近くにいた。
ツアーが始まって最初のポイントは、宝物館を代表する国宝の「灌頂幡かんじょうばん)」で、法隆寺のお堂や境内に吊るされるもの。レプリカが後ろの天井に掛けられているが、金ぴかの光り輝くもので、天空に輝いて見えたに違いない。天蓋から下がる小幡などに天女などの美しい透かし彫りも見られる。
二番目は金銅仏。ここでも金メッキの光り輝く仏様(釈迦の母、麻耶夫人像、如来像、菩薩像など)がありがたく展示されている。
三番目は竜首水瓶水差し水差しの頭にガラスの目が入った龍頭、把手は竜の胴体、水差し本体の胴にはペガサスが彫り込まれ、ササン朝ペルシャの影響がみられる名品のようだ。
三番目の部屋では「聖徳太子絵伝」を見る。平安時代の作で、太子信仰の深まった時代、甲斐の愛馬で富士山を駈ける太子が印象的。
そのほか、染織の幡なども見たが、時間が無くなり、ツアー終了後、急いでもう一回りして撮影し、本館のショップで図版などを購入、再度平成館を少し見て今回の博物館見学を終了する。半日ではほんの一部しか見ることができない。またこよう。
写真1:「灌頂幡かんじょうばん)」
写真2:如来立像
写真3:様々な塙の名品
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