昨夜は、ソチオリンピックのスノーボードハーフパイプ決勝で平岡が銅、平野が銀メダルを獲得する一方、金メダルを期待されていた女子スキージャンプの高梨沙羅が、メダルを逃すという「事件」が起こっていた。まあ、私はそんなことが起きそうな気がしていたので、驚かなかったが、金メダル候補とはやし立てていたマスコミ、テレビ関係者はショックを隠せない表情だった。17歳の少女の心を追い詰めていたのはマスコミなのに、いい気なものだ――。オリンピックとは難しい場所で第一人者だから勝てるというわけにはいかない。やはり固くなって体がいつもより動かず、踏切りのタイミングが遅れ、さらに風が追い風の不運ーーいつもの着地ができていれば三位には食い込めただろうに――、などと言っても仕方がないーー。それにしても前回、服装や言動などでトラブルになったスノボーでメダルとは皮肉だーー。もしかしたらこれが今回の日本のメダルのすべてになるかもしれないーーフィギュアスケートも羽生以外は不調が目立つ――。私は今回は金メダルは0から2と予想、あまり期待しないようにしていたが、限りなくゼロに近くなったかな――。オリンピックの元々の精神では国対抗の競技ではなく個人対個人であったはずだが、いつの間にかナショナリズム発揚の場になってしまった。まあーそれでも武器を持って戦うよりはましだがーー好戦的な人間という種族の闘争本能を満足させるという効果はあるのだろうかーー???
そんなことを考えながら、渋谷に向かう。アップリンクは久しぶりーー昨年は何度も通ったがー。イラク戦争と人質事件は2004年、10年前に起こった。当時、ブッシュ大統領が、イラクを大量破壊兵器を持ち、アルカイダらのテロリストを支える「悪の枢軸」と決めつけ、多くの罪なきイラク市民を巻き込む空爆、砲撃で、10万人以上の市民を殺戮し、深い傷跡をイラク社会に残した。しかも劣化ウラン弾の使用で、流産、死産、先天性奇形児(口蓋裂、脊椎破裂、などなど)などが多発している。そうした状況の中でイラク市民を医療などの面から支援していたボランティアの一人が、人質事件に巻き込まれた一人の高遠さんだった。また高校時代にベトナムの枯葉剤被害者を訪問した時の衝撃から劣化ウラン弾問題を考えようとイラク入りした冬至の高校生の今井さん、フォトジャーナリストの郡山氏、この映画はこの事件に巻き込まれた日本人のその後の生き方と現地で苦しむイラク市民、ジャーナリスト、支援する医師、活動家らの様々な人々の視点で、あのイラク戦争と人質事件、「自己責任」という政府、マスコミ関係者と追随者のバッシングは何だったのか、それを検証するドキュメンタリー映画だ。
そもそもの問題はアメリカのブッシュが、イラク政府がアルカイダと結びつき、大量破壊兵器を秘密裏に開発しているという誤った疑惑を抱いたこと、あるいは、産軍学複合体が、わざとそのようなシナリオを売り込んで、戦争で一儲けしようと企んだことだ。結局、イラクに大量破壊兵器は存在しなかったのだが、10万人以上のイラク市民の命が奪われた。ブッシュはその責任を何も取らずに大統領を退いた。イラクからの撤兵にも時間がかかり、長い間駐留している。オバマが最終的に撤兵させている。その間、新政権はシーア派イスラム教徒が握り、スンニ派が圧迫され、生存権を求めてデモが起こり、内戦状態になってなおも命が失われている。
そんな中で、人質となった一人の高遠菜穂子さんは、一人黙々とイラクで病院・医療ボランティアとして、おおきなNGO や、日本の医師と地元の医療施設などとをつなぐ仕事をしている。なぜ大きな組織で仕事をしないのか、という問いには、大きな組織だと漏れてしまう病院や村などを探して、そこと大きな組織や医療関係者とをつないでいくのが、高遠さんのスタンスであるという。また米軍の劣化ウラン弾使用でその影響とみられる出産異常、口蓋裂や脊椎破裂などの奇形に関する医療対策や調査をして、国連などに報告している。こうした劣化ウラン弾問題で活動してきた高遠さんと10年前に知り合ったのが、当時の高校生の今井さん。ベトナム旅行から戻ってイランに向かい、人質事件に遭遇した。もう一人のカメラマンも、劣化ウラン弾などのイラク戦争の実態を取材していたのだろう。自衛隊撤退を求めた犯人に対し、政府は拒否、家族関係者は懸命にイラク関係者、メディアに三人はイラクに自衛隊を送る政府の回し者でなく、イラク市民を助けるための活動をしてきたことを伝えようとする。政府関係者は政府の勧告を無視してイラクに入国した三人を自己責任だと非難、マスコミも同調し、三人の家族には自己責任、政府が税金をルカって食う出するな、費用を全額負担しろ、日本のために死ね、などと避難するファックスや電話が数百通届いたそうだ。ただし、イラク戦争に反対し、自衛隊出兵を批判して、三人を激励するファックス、手紙はそれ以上に多かったそうだ。それがどうにか理解されたらしく、三人はその後少し経ってから解放された。
彼らは帰国後もバッシングが続き、家族も精神的に参り、今井さんは実家を離れて関西に移住。進学して商社に勤めてから退職し、通信高校の学生を支援する活動を始める。自分も高校を休みがちで、いじめや引きこもりの青年の生きる場を探す手伝いをするボランティアを始めた。高遠さんはしばらくやはり引きこもりがちで、活動をやめようかと悩んだが、母に弱音を吐いたら、平手打ちを食って「自分の信念に忠実に生きなさい、イランに行ってイラン人になれ!」と叱咤激励され、目が覚めたという。すごい母親だ――。彼女は再びイランに飛び、活動を再開する。しかしフセインの去ったイランはシーア派イスラム教徒の政権になり、スンニ派の人々が苦境に立って、民主主義の復活を求めるデモを行い、警察の発砲で大勢の死者が出ている。民主化とテロの撲滅の理由で軍事介入した米国に対し、これがアメリカの言う民主化かとイラン市民は怒る。警察に発砲され、血まみれの市民が運ばれる病院で支援活動をする高遠さん、地元のジャーナリストを日本に招待し、早稲田大学など全国各地でイラクの現状を報告、講演し、また訪問する各地で日本を取材する。原爆ドームや沖縄の普天間基地を訪問し、ゲートの封鎖行動の人々を取材し交流する。沖縄のこともイラクのことも日本人は無関心だが、その原因の一端はメディアの在り方にあるとメディアの意識改革を求めている。政治家もメディアもアメリカべったりで、戦後の米国の対日工作はあまりにも成功しすぎている。
今井さんは自分の居場所を見つけ、昔自分あてに送られたファックスや手紙を見返す心の余裕が生まれてきた。今、この手紙を見て、激励の手紙の方が多かったことに気づく。今、かつて激励してくださった人々にお礼の手紙を書こうと思っている。自分がしてきたこと、ここまで乗り越えてきたことを伝えようとーー。
かつて国際人権問題などに関わったこともあるが、この10年、イラクを巡って起こっていること、バッシングにあった人々がどのように生きてきたか、映画を見て感動を覚えた。また最近、古代史に関心を持ち、遺跡巡りの旅などをしていて、このメソポタミアの大河のほとりに生きるイラクの人々のことをもっと知るべきだと思った。文明や農耕の起源ともいえるこの土地で数千年にわたる歴史を生き抜いた人々の生きる土地を軍事で蹂躙すべきでないと強く思う。この地域全体が世界遺産のようなものだし、そうした人々への尊敬が何より必要だ。無論、古代の文明と言っても様々な民俗が通過し、国家や民族の支配の交代は起こってきたが、また古代のゾロアスター教(ペルシャ・イラン)その他の古代宗教からイスラム教の支配へと変化してきたものの、それらの末裔の人々であることには変わりはない。戦争、内戦などで破壊される遺跡も多く、発掘が中断している場所も多いようだ。
映画を見終わり、資料を受付でチェックして、一階の食堂に向かう。タベラ・レストラン(タベラはポルトガル語でテーブル、ブラジルのコロニアル風カフェだそうだ)には初めて。今日は水曜で映画は500円引き、レストランの割引券付きだったので、ランチを食べる。サラダ、ハンバーグ、ライス、ジュースにスィーツ付だ。ここはいつも混んでいるが、今日はやや時間に余裕があるので、行列に並んでみた。なかなかしっかりとした料理だ。特にテーブルに置いてあったアリッサという北アフリカの辛いソースがおいしかったので、これをレジで購入。またデザートのドライフルーツケーキもおいしい。人気の秘密がわかった。
1時過ぎ、アップリンクを出て近くにある戸栗美術館に向かう。今日は「鍋島焼と図案帖」の展示を見て、14時からの展示解説を待つ。陶磁器への関心は縄文土器、遺跡、文化への関心から、土器から陶磁器への発展の歴史をたどってみたいということと、美術的な関心からだ。鍋島焼は外様大名だった鍋島家が将軍家に参勤交代その他の折々に高価な中国陶磁器などを献上品としておくていたものが中国の内乱で入手できなくなった時代に中国から職人を得て、技術を習得し、独自の磁器政策を開始したもの。初期の作品から最盛期の作品、中後期の作品まで、その変化の歴史が見て取れる。最盛期は尺皿(鉢と呼ばれた)、大皿(7寸皿)、中皿(5寸皿)、小皿(3寸)、茶碗皿(現物が発見できず不明のもの)などの大きさや木盃型という正円の深皿に高台の付いた形やそれぞれの皿数などの規格があった。また陶磁器の文様にも気を配り、将軍家に失礼のないよう、動物紋などは極力避けたようだ。14時から学芸員による展示解説、丁寧に初期から最盛期、後期の作品とその背景を解説する。様々な難しい条件の中で職人たちは工夫を凝らし、心血を注いで制作したことが偲ばれる。将軍家に献上したものでも、けして堅苦しい一方でなく、素晴らしい文様が多い。彩と言い、デザインと言い、形と言い、素晴らしいものがある。その文様を工夫するための図案帖が鍋島家に残されている。この図案帖と残された伝世品や古い時代の窯跡の発掘、江戸城の発掘などから発見された陶片を突き合わせて、様々な新しい発見があるようだ。いつの時代にどのような作品がどこの窯でやかれたのか、少しづつその姿が明らかにされつつあるようだ。サントリー美術館では「伊万里展」が行われており、合わせてみると一層の理解が深まるかもしれないーー。
磁器は中国では紀元前から始まり、後漢時代にはすでに完成し、朝鮮半島に伝えられた。日本ではかなり遅れ、秀吉の朝鮮出兵の際、半島の陶工を連れ帰り、日本の肥前有田で磁石を発見し、その地で磁器製作が始まったといわれる。鍋島焼は17世紀前半に将軍家献上品など鍋島家の事業として藩直営の窯を作り、献上品や贈答品を中心とした高規格の焼き物(磁器)を製作した。近年、考古学的な窯跡の発掘調査などが行われ始め、この時代の磁器生産・流通の実態が解明されつつあるそうだ。
展示解説が終わり、学芸員にいろいろ質問して面白い話を引き出すことができた。一階に降りて別の個人像の後期鍋島焼の展示も見て、資料を購入し美術館を出た。帰りにモンベル渋谷店によって、雨具の袖の破損(ひっかきで敗れた箇所)部分の修理を相談、安価で可能とのことで雨具修理を依頼して、駅に向かう。ここから井の頭線西口のマークシティ側に出る道を探す。東急本店から円山町の中に入るが、坂の多いラブホテル街の中で方向を見失い、さまよう羽目に。結局、迷った挙句、神泉駅に近いところに出てしまう。再び渋谷駅方面に向かうが、何とか道玄坂に出てからも方向を間違え、高速の通る玉川通に出てしまう。しかも、どこにいるのか分からなくなり、道玄坂上から神泉の交差点まで行ってしまう。方向の間違いに気づ、き道玄坂に戻って交番前信号に出る。そこで改めて右前方を見るとマークシティ入口が見つかった。先ほどすぐ近くまで来たのに、今日は全く方向感覚がおかしいが、どうも根っから方向感覚が悪いのかもしれないーー??この辺はわかりにくく地形も複雑のようなので、あまり無理せずにわかりやすい道を進んだ方がよさそうだ。
写真1:アップリンクのランチ
写真2:生前のハチ公(渋谷観光協会)
写真3:戦時中のハチ公像供出(昭和19年)
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