「浮世絵」の源流と言えば、岩佐又兵衛、創始者と言えば菱川師宣。生年不明、その生涯は大まかなことしかわかっていないが、多数の作品と大勢の弟子、浮世絵工房を残している。講師の小澤弘氏は、元えど博教授で現在江戸建物園長の小澤弘氏。
菱川師宣は安房国の保田に生まれ、両親は染織関係の技術者(縫箔師)で幼少より絵を好み、江戸に出て絵画の三家(狩野派、土佐派、雪舟の長谷川派)などからしっかり基礎を学び、やがて「浮世絵師」と自ら名乗り、世も認めるほどの名声を確立した。「菱川吉兵衛」の自著を入れた最初の絵本「武家百人一首」を発表したのが寛文12年(1672年)で挿絵を提供した絵師が版本に署名を入れた最初の作品だった。それ以降、吉原の遊女、役者評判記、和歌の絵解き、名所案内記、金平本や好色本など様々な主題を扱い、天和三年(1683)、「美人絵尽くし」といった風俗絵本も刊行、天和二年(1682)刊行された、大阪の井原西鶴の「好色一代男」は、その二年後に江戸で出版されるに際して、挿絵画家として採用されたのも菱川師宣だった。さらに「好色一代男」の絵本版と言える「大和絵のこんげん」では、見開きに大きな挿絵があり、文章は上段五分の一程度に小さく入れて、文章と絵の比率が逆転している。また「見返り美人」をはじめとして、肉筆画の分野でも多くの作品を製作し、、絵巻や屏風の大作にも筆を振るった。歌舞伎図屏風など、芝居小屋、花見、盆踊り、納涼など様々な市井風俗を描いたが、有力弟子の古山師重をはじめとする多くの弟子を抱え、工房として、多くの作品を量産したと考えられている。「好色一代女」には「菱川が書きしこきみよき姿枕」などの記述が散見され、師宣の名声は上方まで広がっていたようだ。上層階級向けの屏風絵なども残しているが、師宣が亡くなって以降は、鳥居清信、懐月堂安度などの台頭で勢いを失った。元禄7年6月4日に村松町の自宅で亡くなり、浅草で葬儀が営まれた。現在の墓所は、生地の千葉県鋸南町保田の別願院で、近くに菱川師宣記念館がある。(当日配布資料より)
講演では、このほか、「江戸絵」と呼ばれた師宣らの絵が「浮世絵」と呼ばれるようになった当時の「浮世観」の変遷、師宣の主要な分野の代表作などを見ながら、この「浮世絵」創始者の画業と生涯を振り返った。
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