明治大学で安倍晴明と陰陽道に関する講演会があった。博物館友の会の企画だ。講師は大東文化大学東洋文化研究所の山下克明氏。まず同氏は陰陽師を「おんようじ」と読む。陰陽師や安倍晴明への関心は映画などの影響が大きいというが、知られざる陰陽師や陰陽道の実際の姿を様々な資料から説き起こしていく。陰陽道が「道」として成立していく原因は、平安時代も9世紀以降、律令制度の行き詰まりや疫病、天災などの流行などでの社会不安が募り、陰陽道などの占い、呪術などに頼りたい社会風潮が生まれたようだ。10世紀中頃、陰陽師として有名だった賀茂忠行、保憲親子が出現し、保憲は従四位という高位に上った。安倍晴明はこの賀茂氏の弟子で陰陽寮(陰陽道を取り仕切る役所)の陰陽少属、天文博士となり、それ以後、陰陽寮を離れて主計権助、左京権太夫などの高位に上り、高齢にも恵まれ85歳の晩年まで活躍し、陰陽時の最高権威者として、従四位の位に上り詰めた。
天文道に関しては、中国では失われている天文学に関する古い資料が日本に残っており、貴重だが、一方、日本の天文道は天体観測などの測量技術の発展には乏しく、江戸時代の渋川春海まで待たねばならなかった。この時代の天文道は前の時代の高松塚古墳やキトラ古墳の天文図に見られるような稚拙なものだったが、陰陽道としては、主として占いの手段として使われており、実際の天文学の発展にはつながらなかったという。いずれにしても、神道と仏教のはざまにある道教や陰陽道の存在を無視できず、興味深い分野になっている。
個人的には若いころ読んだ荒俣宏の「帝都物語」に出てくる加藤保憲の保憲が賀茂保憲の保憲だったのか、妙なところで感心した。
写真1)当時の陰陽師の使っていた六王式版の復元品
写真2)中国の天文図(南宋時代)
写真3)天文図(中国では失われている詳細な古代天文図)