江戸博で開催されている「日本発掘2014」展の関連講座の「古代」編。講師は奈良文化財研究所の松村恵司氏。1995年の第一回の時は文化庁の調査官で、この展示会の企画に携わっていたが、開催前に奈良文研に移動し、展覧会自体には立ち会えなかったという。それ以来20年にわたるこの展示会を振り返り、古代史の理解を塗り替える発掘が数々行われてきた。この20年間の展示に関する発掘は100例ほどで、そのうち都城・宮都関連が8(%)、地方官衛、行政関連遺跡が24(%)、仏教関連遺跡が17(%)、信仰、祭祀関連が13(%)、それ以外に交通関連(5)、交易、国際交流関連(4)、終末期古墳、古代の墓関連(6)、その他(14)となっている。資料としてはこれまで展示された100以上の遺跡のリストと分類が出されたが、、講演では、最初に出土した木製人形などからわかる律令祭祀を切り口に、こうした近年の発掘成果から新たにわかった古代国家の形成過程について、松村氏の見解が示された。
律令国家の完成を701年の大宝律令とすれば、その当時の倭国を取巻く国際情勢が議論される。589年の隋、618年の唐の成立の中で、韓(朝鮮)半島に進出し、倭国にも圧力がかかってきた。倭国と関係の深かった百済が唐・新羅連合軍に敗れ、高句麗も滅亡する中で、百済の要請で援軍を送った倭国も、白村江で大敗を喫し、倭国防衛のための軍事施設を太宰府をはじめ九州を中心に全国各地に建設していく。そうした防衛施設の遺構も発掘されている。高句麗滅亡の一年前の667年に建設された近江大津宮も、万一新羅・唐連合軍が倭国を攻めてきた場合の用心で、いつでも日本海から逃げ出せるように準備したらしい。こうした国際情勢が645年の大化の改新の背景にあるようだ。
その百済から伝来した仏教は飛鳥寺、飛鳥大仏として結実し、さらに唐と新羅が不仲になり朝鮮半島から唐が撤退して、当面の危機が解消され、倭国は内政に力を注ぐ句とができたという。
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