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東武東上線成増から高島平行きのバスで区立美術館で下車、隣にある郷土資料館に向かう。資料館では昨年末から「発掘成果から見た板橋の縄文・弥生」という特別展を開催しており、今回はそれにちなむ講演会。12時半頃に資料館に到着し、小一時間展示を見る。1時過ぎに講演会のために行列ができたので、先に席を確保してから再び展示を見たり、図録を求めた。そのうち見覚えのある大塚先生が登場。講演が始まった。席は満員で座り切れずに新しい席を出すほどだった。大塚先生は実は板橋区出身で、戦前18歳で海軍に入隊し、気象兵として昭和20年4月に二等兵として艦船に乗って米軍潜水艦に撃沈され、漂流して済州島民に助けら、再度乗艦して二度目も撃沈され、再び奇跡的に済州島に漂流して助けられたという。同じ船に乗り込んだ大半の仲間が二度も命を失った。この経験で日本の軍部を信じることをやめ、戦後は歴史を学び直そうと明治大学の夜学に通い、考古学に出会ってこの道に入ったそうだ。教育勅語をはじめとする皇国史観を問い直そうと夜学に通い始め、当時の明治大学考古学の著名な後藤守一から、ヤマトタケルの三種の神器の神話に出てくる草薙の剣を考古学的に検討すると、剣が伝わる熱田神宮の宮司が見てはいけない剣を覗くと青黒く光っていたーーという記録から、剣は青銅製で、北九州との関係が深いことがわかる、などの講義を受けて、戦前とは異なる歴史研究が始まったのだと実感されたそうだ。戦時中はそのような発言獄門覚悟でないとは一切できなかった。そこうしているうちに、夏休みが来て後藤先生から登呂遺跡の発掘を行うので、時間と意思のある学生は参加するように言われ、当時昼間勤めていた通産省では郷土の神経衰弱という偽診断書を出して転地療養で静岡に行くということで発掘に参加、以後夏の旅に神経衰弱になり、4年間発掘を行ったという。後藤守一、杉原壮介という明治大学の二枚看板の大先生の教えを受けたということだ。またこの両先生のところに進駐軍から日本国家の起源について学びたいと米軍将校15人が大学で1年間講義を受けたそうだ・15人全員日本語ペラペラで日本語の講義を受けたという。これだけ見ても日本は戦争に負けるべくして負けたのだと悟ったという。敵性語を学んではならないという日本といかに違うことかーー。講義の見返りに米軍が接収した三浦半島の夏島を見学させてほしいとお願いし、日本軍の高射砲台で削られた崖から夏島貝塚が露出し、貝塚の下層から縄文早期の土器が露出していることを見て、本格的な発掘調査の許可が出て、有名な夏島貝塚の発掘調査に至ったそうだ。また登呂遺跡調査が終わり、すぐ板付遺跡の発掘が始まり、大塚先生も続けて4年間参加されたという。こうした戦後の重要な弥生や縄文遺跡の発掘の経験と二人の偉大な考古学者との出会いが先生を考古学へと導いたということだ。
つぎに弥生時代研究の現状について、興味深い話が続いた。国立歴史民俗博物館の調査により弥生時代の年代観が500年も早くなり、現在も議論が続いていること、
以前考えられた以上にヒトやモノの移動が激しく、古墳時代の国家形成につながる弥生時代の社会の激変の姿が次第に明らかになり、今現在もその実像は揺れ動いている、と様々な例を挙げて話をされた。最後に弥生時代の波がいかに東国、そして板橋に及んだのか、板橋が荒川の洪積台地から低地に至る大地の縁に当たり、数多くの旧石器、縄文、弥生、古代の遺跡が発見されていること、ただし、当初の農耕開発地であった谷地からその後広大な低地の開発に移り、広大な低湿地を持たない板橋からは巨大な前方後円墳を持つような権力者が生まれず、それは多摩川下流域に生まれたこと、などなど話されて、今回は時間が無くなって幕切れとなった。大塚先生の話しは二度目だが、(一度目はお抱え外国人教師ガウランドのこと)、いつも先生のお話は情熱的で、二時間立ちっぱなしで休みなしーー二度の軍艦撃沈を潜り抜けて生き抜いてこられた先生は体力底なしか??持病もあり、時々ダウンされるので、末永くご活躍を願うばかりだ。話が終わって拍手が鳴りやまなかった。
写真1)四葉遺跡の縄文(諸磯式)土器
写真2)四葉地区遺跡の古墳時代の装飾品(国内最大級のヒスイの勾玉など)
写真3)講義を終えた大塚先生
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