かつて「暴徒」呼ばわりされた秩父事件関係者も、現在では「自由民権運動」の担い手として名誉回復され、1974年の90周年以降、毎年記念集会が開催されているようだ。1984年には100周年記念大集会が盛大に行われ、2004年の120周年には映画「草の乱」(緒方直人主演)が公開された。昨年の130周年集会ではNHK大河ドラマの「志士の時代」で秩父事件にかかわった会津藩士役を演じた菅原文太氏が講演を行い、そのすぐ後に亡くなった。昨年の講演のことは知っていたが、こんなことになるとは予想もつかず、聞きそびれて残念なことをしたものだ。
その後、秩父の明治以降の峠の交通(明治16年に高崎線開通)と路線につながる新道開削に関して地元の負担が大きく、当時の松形デフレ、世界恐慌の三重苦で困窮した農民が借金の減免などを求めて決起したものだ。政府は富国強兵政策を強行するために、農民らの困窮を無視したことに決起の原因があっただろう。当時は国会開設や憲法制定をめぐって、激しい対立が続いている最中での出来事だった。
私自身、秩父をよく歩き、またMTBで走った。決起集会が行われた椋神社から小鹿沢峠を越えて音楽寺の梵鐘を打ち鳴らし、今の秩父市。当時大宮郷(秩父神社を大宮と呼んでいた)に向かって進軍し、大宮郷の高利貸しらを襲い、続いて皆野に本陣を張って世直しを主張している。無論、女性や金品強奪や放火などは一切禁じられ、統率のとれた行動だった。峠との関係はこれにとどまらない。まず、秩父事件参加者は秩父のみならず。風布集落の大半が峠を越えて秩父事件に参加する。また北相木村など信州側も似たような事情を抱えており、秩父事件関係者のオルグ活動で、十石峠などを越えてさらに屋久峠や志賀坂峠を越えて蜂起に参加していた。さらに皆野から三隊に分かれ、出牛峠から児玉・本庄方面、粥新田峠から小川町へ、正丸峠から飯能へ出陣する計画だった。しかしながら、事情を把握した政府が警官と憲兵、陸軍を各方面に配置して農民軍を迎え撃った。武器は農民らは刀や農具の他はあっても火縄銃しかなく、村田銃などで武装した政府軍の敵ではなく、大勢の死者を出して瞬く間に押し返された。生き残った農民軍は十石峠を越えて信州で体勢を立て直してシンパを募って反撃するつもりだったが、ここでも高崎方面の陸軍が碓氷峠を越えて進軍しており、あっけなく打ち負かされてしまう。射殺された多くの人々、捕まって死刑になった幹部、北海道他まで逃れて生き抜いた人など、その後の人生は様々だが、多くの歴史家や民権活動家の努力が実って、名誉は回復された。化石燃料をふんだんに使って重機などで造る道路や鉄道、トンネルなどの無かった時代、峠の交通がいかに重要だったか、秩父事件を通して学ぶことは多い。
講演の前後に特別展の「埼玉の自由民権」と常設展を見学、東国の歴史に思いをはせる。
写真1)弥生時代の水田などの農業開発の動向を知る手がかりとなる在地土器と東海系などの移入土器の分布ーー群馬は東山道ルートで東海系などの土器が入ってきたが、埼玉は主として南から荒川を遡って弥生文化が入ってきたようだーー
写真2)埼玉と武蔵・毛野の4〜5世紀の古墳分布
写真3)馬型埴輪と馬の遺体出土数では東国は群を抜いて多いーー群馬を中心に馬の飼育がおこなわれていたらしい(ヤマト政権との同盟関係)
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