前回、なぜ多くの方が「百名山」の「踏破」を目指すのかについて問うてみたところ、多くの方からコメントをいただいた(コメントくださった皆さん、ありがとうございます)。その結果、私が多くの方に抱いている思いは意外と私の偏見というか、思い込みによるものであるとわかり、少しホッとしたところである。
では、次に、なぜ私が、あえて「百名山」の「踏破」を目指さないのか、について考えていきたい。
この点、アンチ「百名山」と言われる方の立場の一部ではあるが、深田大先生の選定そのものがおかしい、という百名山批判がある。例えば、東北には、「全国一の紅葉」「神の絨毯」とも謳われる栗駒連峰、全国随一の景観を誇る秋田駒ヶ岳はいずれも「百名山」から落選、日本有数のブナ林と素晴らしい眺望を有する船形山は「いい山」であるが「低い」が故に選考対象外。そのような深田大先生の選考自体がおかしい、という批判だ。あるいは、三百名山に対する批判として、百名山は深田が自分の足で歩いて、品格・歴史・個性と標高という厳しい基準に基づくものに対し、三百名山はそのような裏付けもなく、地元の山岳会のおっさんたちの意向ばかりが反映されておかしい、という批判も、やはり、基本的には選考方法に対する批判という点で同じ考え方のように思う。
結局、これらは、「百名山」や「◎◎名山」を批判する理由ではなく、深田大先生(もしくは山岳会や深田クラブ)の選考を批判しているに過ぎない。そもそも、「百名山」は、深田大先生が自らの独断と偏見で選んだものに過ぎず、大先生に対し「なぜ選ばなかったのか?おかしいではないか?」と嘆いても単なる価値観の相違に過ぎず、あまり意味はないであろう。
より本質的に問題であると思うのは、この深田「百名山」なるものを「登山の指標」「目指すべき山」と祭り上げてしまった「日本百名山」出版後の日本人にあり、「百名山」の祭り上げは、今もなお続いているのである。最近の例として、yamapが深田「百名山」が「歴史的な背景をもつ」と評価したうえで、そのピーク認定を原則各山の最高点に統一したことが2020年10月にあった。「百名山」が「歴史的な背景をもつ」だと?たかだか個人の価値観に基づく選定で、しかも期間にして60年にも満たない期間を「歴史的」とは、全くのお笑い草である。このような深田大先生の主観的な選定が、“客観的”指標もしくは歴史あるものとしての祭り上げてしまったことが、「百名山」という妖怪を生み、多くの方が「百名山」を目指す道となったと思うのである。
まやもや脇道にそれてしまったが、深田大先生自身の選考に関する問題、私の愛する東北の山々が選定から漏れたとかは、私が「百名山」をあえて目指さないこととは何ら関連性はない。
(以下、つづく)
まず、大前提なのですが、名山とは、麓から見て、見栄えがすることが第一です。
これは、太古の昔からそうであって、日本百名山の選定基準もそれが第一になっています。
下記参考まで。
https://www.yamareco.com/modules/diary/73693-detail-77235
日本百名山について語るなら、まず、深田久弥氏の選定基準を考慮しない議論は不毛ですね。
tektektek2003さん、こんにちは。
まだ妖怪と戦っておられるのですね・・・・
yamapの経緯は良く存じておりませんのでピント外れであれば申し訳ありませんが、
> たかだか個人の価値観に基づく選定で、しかも期間にして60年にも満たない期間を「歴史的」とは、
というのはちょっと違うんじゃないでしょうか。
深田氏が選定した際に「品格・歴史・個性と標高という厳しい基準」から選んでおり、いずれも長い歴史のある山です。yamapはそれを理解しているのであって、決して深田氏の著作を歴史とは言っている訳ではないと思います。
名山の定義は、NYAAさんのご指摘のように登山者目線からではないのですね、改めて気づかされました。そうであるとすれば、tektektek2003さんの仰るように「目指すべき山」ではないという解釈もあると思います。
まあ、繰り返しになりますが、百名山であるか否かに関わらず登りたい山が大半ですし、実際登って見て良かった山が殆どです(個人的に若干の例外)。残りの山も百を意識しなければ遠征しなかったかもしれないと思うと、参考にして良かったと思います。そして来月もそういう山(百名山であったが為に初めて知って登った山)を再訪します。
秋田駒も早く登りたいですが、一度機会を逃したらなかなか次が無くて・・・
NYAAさん、fireboltさん
しつこくてすみません。
お付き合いくださって、コメントありがとうございます。
私の関心は、深田久弥大先生だろうが、深田クラブであろうが、山岳会だろうが、あくまで自分以外の他人が主観的に選んだ山をなぞる行為にどれだけ意味があるのだろう、という自分への問いかけが出発点なんです。だから、彼らが選んだ山が、いい山(もしくは名山)であるか否かにについては実は全く興味がありません。なお、深田久弥が選んだ山(いわゆる百名山のこと)が嫌い、というわけではありません。
「名山」については、それぞれの価値観や育ってきた環境によって変わるものであるから、10人いれば10人それぞれの「名山」があると思っています。ただ、社会的には、「百名山」を頂点に300の名山が厳然と【認定】され、そのことは私にとっては不快にすら感じます。無視できないところが、まさに妖怪と表現する所以です。
自分が選んだ山がたまたま百名山であったというのであれば理解できるのですが、あえて「他人が選んだ」「百名山」なるものの「踏破」を目指す理由がよくわからなかったから、その意味について、前回皆さんに質問してみました。あまり皆さんは拘っておらず、むしろ
自分の方が拘って思い込みが激しいとは思いましたが。
Yamapについては、確かにfireboltさんの仰るとおりかもしれません。ただ、それなら、全ての山がそれぞれの歴史があるのであるから、別に「百名山」に限ってそんなアナウンスをする必要はないはずです。私としては、百名山のみを取り出して、あえて「歴史あるもの」として、特別扱いをすることが理解ができないのです。
余談ではありますが、tektektekさんは、御存じでしょうか?「他人が選んだ百名山の踏破を目指す理由がよくわからない」とおっしゃってますが、実は、深田氏も同じような考えです。
日本百名山は、深田氏が自分で選んだことに意味があるんです。「素晴らしい山ばかりだから、みんなで登ろう!」なんて、まったく考えていないんです。
「日本百名山」は、「これが、オレが選んだ百名山だ!」そういう本なんです。
深田氏自身が他人の選んだ山を登るという行為を是とすることはあり得ない話なんです。
NYAAさん、さらなるコメントありがとうございます。
私も「日本百名山」は愛読書です。
その中身を読めば、NYAAさんが仰ったことは十分読み取れると思います。
だからこそ、「百名山」の「踏破」を目指す方に、その理由をうかがったのです。
ただ、当時深田久弥さんがどの程度の知名度を誇っていたかは、全く想像できませんが、、あえて自分が良い山を、厳しい基準で、100個選び出し公表する行為が将来いかなる結果をもたらすか?について想像して欲しかったと思ったりはします。
tektektek2003様 はじめまして
ランキングをお見受けすると、2019年から凄い勢いで登っておられますね。「日本の山1000」を東北地方を中心に既に68座も登られているので、「日本百名山」の方は、特に意識しなくても後で結果がついてくるものと思います。
shokunpapaさん、コメントありがとうございます。
山に登れば登るほど、「百名山」ばかりが注目されていることに矛盾を感じてしまうんですね。
東北の山が好きなので、今後も同じ山ばかり登るので、距離は増えてても、登った山の数はそれほど増えないと思います。いずれ意識しなくなればいいな、と思ってます。
初めましてです。
『日本百名山』は何度も読んで、あぁ登ってみたいな、と思う山がほとんどでした。
仰る通り、かの作品は深田さんの独断で取捨選択されたものではありますが、その取捨選択の基準にとやかく言える方はどれだけいらっしゃるのか甚だ疑問に思います。
確認はしていませんが、yamapが主張した歴史的背景は『日本百名山』という作品そのものかも知れませんが、『日本百名山』の本質はそうではなく、山そのものの歴史の中で、どれだけ麓に住む住民の方々の生活・信仰・心の支えになっていたか、ということであろうと思いますよ。
従って地元のことをどれほどわかってもいない、遠方から登りに来た登山者には、それはわかるはずもないというものです。
少なくとも、彼が調べた山の歴史・地元の方から聞き取りした歴史を上回る内容を持って批判する方は、多くはないと思います。
単に眺望が良い、お花がたくさん咲く、堂々たる姿形・標高と言った、我々一般登山者にも評価可能なものだけではなく、なかなか踏み込めない『その山の歴史』まで含めて評価し、さらに風情あふれる文調で綴られる心地良い読み心地だからこそ、文学として評価されているわけですね。
そもそも、『日本百名山』は随筆ですので、個人の独断で何の問題もないわけで、批判するなら自分独自の随筆を発表すべきかと思いますね。
多くの方の日本百名山をぜひ読んでみたいものです。
SM100Cさん コメントありがとうございます。
私も「日本百名山」という作品は素晴らしいと思います。仰るとおり、読んでみて是非登ってみたいと思う山も多いです。その描写に惹かれ、登ってみることは自然な感情だと思いますし、私自身も共感します。大多数の方がそのようにして、「百名山」を登っているのであれば、きっと「妖怪」などといって日記にも書くことはないのだと思います。
また、その選考は深田久弥個人の感性に基づくもので、その取捨選択の基準を批判することは、私自身本文で書いたようにあまり意味はないと思っています。
なお、論争するつもりはありませんが、「地元のことをどれほどわかってもいない、遠方から登りに来た登山者には、それはわかるはずもないというものです。」との記載がありますが、私が「日本百名山」で東北の山々を読んだ限り、やはり深田久弥大先生も「地元のことをどれほどわかってもいない,遠方から来た登山者」であるという認識です。
tektektek2003さん、はじめまして
このシリーズ日記、興味を持って拝見させて頂いています。
「深田久弥氏の日本百名山」が刊行されたのは昭和39年。
山を歩き始めた私がこの本を購入したのが昭和49年発行の18版。当時登山ブームだったとはいえ、初版発行後10年で18版とはすごい売れ行きです。
この人気が元で他の「日本百名山」が世に出ることがなかった(或いは出ても定着しなかった)のだと思います。
そういうことからも深田久弥氏が偉大であったことは認めざるを得ません。だからといって、「深田久弥氏の日本百名山」に掲載されている百山が本当に「日本百名山」かというと異論も多いことと思います。だって、深田久弥氏の「独断と偏見」で選んだ山だからです。分布が深田氏の活動エリアに偏ってる感は拭えません。
「深田久弥氏の日本百名山」が刊行されたのは私が山を始める前のことなので、私などの若輩者が異を唱える立場にないけど、若い頃はこんなおっさんが独断で偏見で決めた山を奉じる気はさらさらありませんでした。
でも今になって思うと、現在に至ってもそれを越える「百名山」が現れてないことから半ば認めざるを得ませんし、地方の山に行くときには大変参考にさせてもらってますので感謝もしています。
ということで、「深田久弥氏の日本百名山」に対しては是でも否でもないのですが、願わくば「令和版日本百名山」が誕生すればいいなと思います。その時は単なる人気投票でなく、その山の魅力が誰にでも判る形で選出して欲しいですね。
因みに現在、「深田久弥氏の日本百名山」を80座あまり登ってますが、百名山に選ばれてない山で「令和版百名山」に値する山として、秋田駒ヶ岳と由布岳を推薦したいです。栗駒山は未だ登ったことないのですが、残る百名山以上に登ってみたい山です。
自分の思いもあって長々書いてしまい申しわけありません。
Ham0501さん、コメントありがとうございます。
たかが「百名山」されど「百名山」
所詮、個人の指標に基づくものであるといいながら、その山々の素晴らしさは認めざるを得ない。そのような心の葛藤が、私の中で渦巻いているというものなのでしょう。
深田久弥版が偉大過ぎた為に、他の「百名山」が世に出ることもなかったし、出ても定着しなかった・・・確かに、そういう面はあったかもしれませんね。
これは、後の日記で触れますが、
「百名山」は、相対化すべき存在だと思っています。そういう観点から、山岳会や深田クラブが、新たに独自の指標で百名山を選定すればいいのに、300名山や200名山の中に、すっぽり深田百名山を入れてしまったことで、「日本百名山」を神格化してしまった面もあったのではないかとも思っています。(仮にそうしたとしても、深田百名山の偉大さゆえ、深田以外は、「偽物の百名山」と言われてしまったかもしれません)
それにしても、ここでコメントをくださる皆さんは、その登山経験ゆえか、余裕がありますね。私も、交錯する思いをここで吐露することで、皆さんからコメントをいただき、少しずつ拘りが取れていく思いもあります。ですので、コメントとても嬉しいです。もう少し日記も続く予定なので、お付き合いいただけると嬉しいです。
さて、「令和版・・・」ですが、流石に、私は、それを選定できるほどの経験など全くないのですが、Ham0501さんご推薦の秋田駒ケ岳は私も同感です。由布岳もいつか登ってみたいですね。
ちなみに、私は週末ハイカーのためか、東北にある「日本百名山」のうち、八幡平、蔵王、吾妻、八甲田は、山というより、もはやリゾート地であり、鳥海鉾立ルート、岩木山8合目より上、安達太良薬師ルート、月山は人のあまりの多さゆえ、登っても複雑な気持ちでした。
こういう惨状を見るとき、今更ですが、やはり「百名山」の相対化は必要なんだと思います。
再びの書き込み、失礼します。
まず申し上げておきたいのは、秋田駒、これは行ってみたいですね!
そこまで推されるなら、ということで単にそういう理由です。
おそらく、百名山完登を目指す方々も、似たような理由ではないでしょうか。
誰でもいいけど、少しでも信用出来る人の推す山、登ってみたいと。
そもそも、百名山を選定するという行為自体に無理がありますし、基準も人それぞれで違うわけで、仰るように地元の事をどれほど分かっていないおっさんが何言うの?みたいな思考はすごく理解出来ます。
しかしそれを言い始めると、カオスですよね(^ω^;)
私事で言えば、何で守門岳が百名山じゃないのよ?ということになります。
なので、これは個人の随筆。
そう思っていないと余計なトラブルが生じる原因にもなろうかと。
好き嫌いはともかく、少ないワタクシの百名山登頂の過去を振り返れば、どこも素晴らしいお山でしたよ。
ただ、歴史的背景にまで突っ込んでいたかと言えば、そんなことはありません。
であるなら、自分よりも少しでも深い考察をしている作品には敬意を表すべきかな、と思う次第です。
地元のお山は、地元人以上の考察を求めたらあまりに深田さんがかわいそうだなぁと思います。
ならこんなもの書くなよ!みたいな意見ももちろんアリかな、と。
SM100Cさん再度のコメントありがとうございます。
私のタイトル名が誤解をうんでいると思いますが、「日本百名山」に対しては、私も敬意を抱いております。「そこはちょっと違うだろ・・・」と思う所はありますが、だからといって著作の素晴らしさを失わせることにはならないと思ってます。
私の疑問は、
「たかが個人の随筆、されど作品(実質的には目次)はバイブル」
このギャップがどうも理解できない、というより認めたくない、といった心境なんです。
今西錦司氏の名山考でも触れられていますが、100個あえて取り出すという初の試みが日本人の性格ともマッチして、バイブル的な存在となってしまった。
しかも、私からみると、深田久弥の「日本百名山」という著作ではなく、「日本百名山」の「目次」こそがバイブルとなってしまった。深田久弥大先生もこの現象はきっと悲しんでおられるかと思います。
そういう意味では、妖怪は、「日本百名山」の著作というよりも、神格化された存在としての「日本百名山」にあると考えております。
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