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JR京浜東北線 蒲田駅の発車メロディーとして知られる「蒲田行進曲」は、大正9年から昭和11年まで蒲田の地に在った松竹蒲田撮影所に由来する。
原曲は1892年、チェコ出身の作曲家ルドルフ・フリムルが発表したオペレッタ「放浪の王者」の劇中歌「放浪者の歌」である。
その後の1929年、松竹映画「親父とその子」の主題歌として、「放浪者の歌」の旋律に日本語の歌詞がつけられたレコードが発売された。
これを契機にして、好評を博したメロディーには模倣曲が多数出され、当時の流行歌となったのである。
後に松竹映画に因んだこの曲が、松竹蒲田撮影所の所歌として唄われることとなった。
当時の蒲田一帯には騒音を出す町工場が多く存在し、防音技術が未発達なこともあって、後に流行したトーキー映画の撮影には向かなくなっていた。
そこで松竹では同じ東海道に位置していた大船に全撮影機器を移転し、昭和11年に蒲田撮影所を閉館した。
蒲田では閉館までの16年の間に1200本もの映画が撮影された。
この数は年間75本に相当し、当時の映画界の盛況ぶりが偲ばれる。
この曲と歌詞のように、幻燈に生命が躍る時代は確実に存在したのである。
戦後も一段落の昭和57年、劇作家つかこうへい氏の戯曲による同名の映画、「蒲田行進曲」が公開され大ヒットし、主題歌としての「蒲田行進曲」も益々盛んに愛好されることとなった。
撮影所を巡る大物俳優と大部屋俳優の交流、そしてその無軌道で破天荒な人間関係を温かい目で描いた傑作映画であった。
「蒲田行進曲」と蒲田、そして松竹蒲田撮影所の縁は移転後も分かち難くなっており、当に「ご当地メロディー」として、JR蒲田駅の発車メロディーに採用されたのである。
今では、移転先の大船撮影所も平成12年に閉館し、松竹直営の撮影所はこれで全て閉館した。
https://www.youtube.com/watch?v=IOX_66aSrEM 主題歌「蒲田行進曲」
顧みれば移転は昭和11年、松竹大船撮影所は大船競馬場の跡地に開設された。
競馬場時代には畑の中の一本道を延々と歩くだけだった大船の地に、映画人たちの街が花開き発展した。
大船では小津安二郎監督をはじめ、木下恵介、大島渚、山田洋次らが数多くの作品を世に送り出した。
渥美清主演「男はつらいよ」シリーズも殆どが大船撮影所で撮影された。
約2,000人のスタッフの胃袋を満たすのは所内の社員食堂と撮影所周辺の数軒の飲食店、そのひとつが浅野屋である。
浅野屋は神田にある浅野屋で修業した初代が大正11年に四谷に創業、昭和14年に大船撮影所門前に移転した。
大船生まれ大船育ちの2代目女将 南部たま江さんはミニコミ誌の取材に語っている。
>「夕方の5時15分からがスタッフ向けの完成試写会なんだけど、潜り込んで映画『君の名は』も観たわね、小学校の頃よ〜」
>「笠智衆さんは肉南そば、三國連太郎さんは奥さまが付き人役でいつも一緒、食べるのは鴨南そば、西田敏行さんは天丼とざるそば〜」
>「倍賞千恵子さんが好きだったのが車海老の天ざる、この海老の天ぷらが1本ドンっていう天ざるは他にはないから、父が残してくれと言ったの〜」
>「車海老も海苔も上等な物を使っているのよ、そば粉や鰹節の仕入先も戦前から同じところなの、ひとすじな父だったの、こういうのだけが受け継いだ財産ね〜」
女将自慢の海老の天ぷらは、当に絶品である。
従って、どうせ食べるなら天丼か天ざるがお薦めである。
双方とも「上」と「並み」があるが、「並み」でも他の店では「上」とされる味と品格だ。
「上」を食すれば、満足と言う他に言葉がない。
それこそが貴重な大船老舗の味である。
店の暖簾を潜って戸を開けると、正面壁上部に大和絵が掛けられている。
懐かしき松竹大船撮影所の全景俯瞰図である。
左手は厨房だが右手椅子席奥には座敷席もあり、足を伸ばして鎌倉アルプス縦走の反省?呑談会も可能である。
現在、撮影所の跡地には鎌倉女子大学、大手スーパー、モール店群、鎌倉芸術館があり、浅野屋は芸術館の正面真向かいに位置する。ainakaren
*写真左は鎌倉芸術館・写真右は浅野屋
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