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他愛の無い雑談をしながら歩くのだが、それでも気の抜けるようなルートではなかった。
晴れた日には毎度痩せたナイフエッジの岩尾根で訓練をしている長野県警の山岳救助隊の脇をすり抜けるので、彼らと顔なじみになった。
任官したばかりに見える若い隊員2人を、中年のベテランらしい隊員が連日のようにそのルートで指導していた。
指導しながらの登攀だから、常にフリーで歩く我々がすり抜けて追い越すかたちになった。
そしてすり抜ける間は、彼らの確保を受けるのが常であった。
救助隊の眼前で万一事故があれば責任問題になると説得され、通常は滝谷ゲレンデの取り付きへの下降直前に着ける腰縄(現在のハーネスの役割をする用具で手作り)を、そこで装着することになった。
耳を貸さないパーティーも多く、我々が快く彼らに従うので確保してもらって逆に礼を言われてしまうのだ。
警察官にも強制力がある訳でなく、あくまでお願いだと云っていた。
この時代、1957年から1960年頃は安保闘争などで世の中が騒然としており、それに呼応するように山岳遭難事故が多発して社会問題化していた。
それが県警救助隊が訓練を急ぐべき理由であった。
「山に祈る」は、その長野県警察本部が1959年に遭難防止の啓蒙のため、遺族達の手記を集めて作成した小冊子だった。
当時人気の男声ボーカル・グループだったダークダックスは、この小冊子の巻頭に掲載された上智大学山岳部の飯塚陽一氏の遭難を、氏の残した日記と母の手記によって合唱組曲に創作する企画をたて、清水脩氏に構成・作詞・作曲を依頼したのである。
合唱組曲「山に祈る」は1960年に完成、公開されたのであるが、この年、まさに私に登攀からの引退を決意させた一連の遭難事故が発生した。
9ヶ月の短い間に3件の事故で4人の若者が命を落としたのだ。
何れも墜落事故であった。
それ故1961年4月末日に山岳会を離れるまで、この合唱組曲を聴く機会が無かった。
初めてこの曲を聴いたのは1961年の夏だったと記憶しているが、傷心の私にはそれを最後まで聴き通す事が出来ず、ラジオのスイッチを中途で切ったことを覚えている。
この曲の遭難の形態が気象遭難であったことから、取り乱すことなく最後まで聴く事が出来るようになったが、それでも1年以上の年月の経過が必要であった。
曲は一遭難者が書き残した最後の手記と、わが子を亡くした母の悲しみを、母の朗読と合唱歌で綴ったものだが、親しみやすく誰もが口ずさめる平易なメロディーで埋められてはいるが、その深い悲しみには、今でも私の胸を締め付け揺さぶる力がある。
作品は母の朗読で筋を進め、歌はその外側にあって物語の情景や情緒を表現している。
主人公の元気な姿から死に至る筋にあわせて、最初の「山の歌」から最後の「お母さん、ごめんなさい」に至る6曲の歌は明るい曲調から次第に暗い曲調に変わって、私の心を揺り動かすのである。相仲 廉(ainakaren)
*合唱組曲「山に祈る」
*「真夜中のJAZZから真昼の星へ」1959〜60年の時代背景
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-13140
こんばんは。
いつもながら、対価を支払ってでも聞きたい程の素晴らしいお話をお聞かせ頂き有難うございます。
今、私は携帯電話より拝読している為、
山に祈るを聴く事が叶わず、こちらの日記に拍手を贈る事も、お気に入り登録する事も出来ません。
しかし、最後の「お母さんごめんなさい」には、相手が母親でなくても、
俗世から離れ山に行く、という行為に必ずついて回る何かが、凝縮している様に感じました。
私などには想像もつかない様な、
凄い経験と辛い経験をされているであろう
ainakaさんを始めとした諸先輩方の前で申し上げるのは、あまりにも恐れ多いのですが、
私個人の考えとしては、山での事故がゼロになる事はなく、
また、万が一山が100%安全なフィールドになったら、
(無論そんなフィールドはこの世のどこに行っても無いでしょうが)
今ほど人を惹きつけなくなってしまうのではないか、と思います。
ですが、だからこそ、そんな山に魅入られた者の端くれとして、
今ここで拝読した話しは忘れる事のない様にし、
機会があれば周りの人にも語り継いで行きたいと思いました。
takec
takecさん、こんばんは。
合唱組曲「山に祈る」は曲想が素朴で、演出も地味、技術的にも、芸術的にも特筆すべきことはありません。
それだけに、現実の遭難事故の悲惨さをストレートに私達に伝える絶大な力を持っていると思います。
遭難事故は他人事ではなく常に自分自身と家族、そして社会の問題であることを曲は強く訴えます。
私達は、そのことをいつでも忘れてはいけないのです。
皆さんに一点の悲しみも無い山の想い出を沢山作って頂きたいと願っております。ainakaren
ainakaさん、こんばんは
この曲のことは、ダークダックスが歌ったということも含めて記憶にあり、どうも中学のとき(70年代前半)に音楽の時間に習ったような気がします。尤も、それは最初の「山の歌」だけのようですが...。
これは割と好きな歌で、一番だけなら歌詞も憶えていて歌えるのですが、そんな背景があったとは知りませんでした(忘れただけかもしれません)。歌詞を聴いただけでは遭難とは結びつかず、当時どう感じたかは残念ながら記憶にありません。大して山に登っていたわけではない頃ですから、それほど切実に感じたはずはありませんが、「山に祈る」というタイトルと、たぶん教科書に書いてあっただろう解説を読んで、多少哀愁を帯びた曲調になにがしかのものを感じ取ったような気もします。
ダークダックスといえば、「雪山に消えたあいつ」も遭難の歌ですが、これまた学校で習ったのか、記憶にないのになぜだか歌えて、高校山岳部時代にテントの中でダークダックス風に?ふざけて歌って顰蹙を買った記憶があります。
kennさん、こんばんは。
最初の「山の歌」は、行進曲風の元気のよい歌ですね。
学校の音楽の時間に教えたんですか。
ダークダックスは男声4重唱ですが、混声合唱と管弦楽が主流になってますね。
今では合唱組曲「山に祈る」といえば混声合唱と管弦楽の作品のことのようです。
男声4重唱の作品はあまり聴かれてないようです。
合唱のほうが4重唱より効果的なのですね。
ダークダックスも今や遠い昔の事になりましたね。
昭和は遠くなりました。相仲
おはようございます。
ainakarenさんの日記には「滝谷のゲレンデ」という表現がありますが、具体的にはどこのことを指すのでしょうか。
私は、C沢右股奥壁以外は主立ったルートを総て、夏にトレースしてますが、ゲレンデというような場所は無かったように思います。
ドーム北壁は確かにアプローチの落石も少なくピッチ数も短く、ゲレンデのようではありましたが、それ以外には思い当たりません。
場所が分かれば、気軽に行けるので、一度行ってみようかと思っております。
pamir88さん、こんにちは。
筆が舌足らずですいません。
私の言うゲレンデはスキー場のゲレンデと同じ感覚で表現しています。
ゲレンデとは〜「訓練目的の登攀を行う場所」の意味です。
キャンプ、アプローチ、ゲレンデと区別して書くことが多いですが、スキー宿をキャンプ、リフトや登りをアプローチ、滑走雪斜面をゲレンデと呼ぶような感覚です。
合宿を伴う山行で自然にそういう言い方が身についてしまったので、現在の山を語る慣例に合わないかも知れません。
何分、半世紀以上前の話ですから〜。
北アルプス、南アルプス、富士山、谷川岳にゲレンデと言いたくなる場所がありました。
谷川岳の場合、ゲレンデはあるのですが、キャンプ、アプローチといっても思い浮かびません。
むしろアプローチ=ゲレンデのような感覚です。
富士山では合宿した五合井上小屋がキャンプ、吉田大沢上部がゲレンデで、下部がアプローチでしょうか。
滝谷行きの場合、涸沢の合宿天幕がキャンプ、北穂東稜がアプローチ、そして滝谷がゲレンデという感覚です。
キャンプは仲間達と寝食を共にするところという意味から、涸沢の幕営地、北穂東稜は、そこが訓練の目的ならゲレンデですが、滝谷が目的ですからこのときはアプローチです。
東稜のルートの呼び名も当時と今とでは違います。
例えば現在ゴジラの背と呼ばれる岩稜は、当時はゴジラそのものが世に知られていませんから存在しません。
滝谷では取り付き点まで下降するのですが、登る場所によってB沢だったり、C沢左俣,松涛岩付近だったりしました。
登攀ルートは4ピッチから6ピッチ位で上れるようにしていました。
ドーム中央稜、第1〜第4尾根、クラック尾根などの記憶があります。
今の呼び名と違っているかも知れませんので、そのときはご容赦下さい。
特定のルートとして、ゲレンデが存在していた訳ではないのです。
前穂高北尾根5峰にニードル・ゲレンデと呼んでいた、遊び場のように易しい特定のゲレンデがありましたが、これは例外でした。
登攀が易しいので訓練にはなりません。
懐かしい場所ですが、もう行くことはありません。
とても寂しく思います。相仲 廉
*(追伸)ゲレンデの概念に関連する古い日記です。
「涸沢キャンプからゲレンデへ」
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-16264
「夜行列車でゲレンデへ」
http://www.yamareco.com/modules/diary/8042-detail-16431
ご返事有り難うございます。
我々の中では、ゲレンデとは練習岩場の名称です。
私たちの隠語で、ゲレンデクライマーと言う呼び名があり、ボルダリングや練習岩場では上手だけれど、山岳の岩場に行くと、自然環境に飲まれたり高度に飲まれたりして、トップでリードできない、ひ弱な自称クライマーを称していました。
私の中では、また、私の仲間のうちでは、滝谷のルートを我々の意味でのゲレンデと呼んでいたのは一人も居ません。少なくとも、私たちの大学山岳部は80年代では国内の大学ではトップクラスのメンバーがいたと自認してよい実績を作りました。私の学年の前後での7000m峰登頂者は私を含めて15人ほどいますし、8000m峰無酸素の登頂者も3人居ます。
で、ゲレンデの認識が違うのですね。よく理解できました。
私の登った滝谷のルートは第二次RCCのルート図に出ているルートです。おそらく、aninakarenさんの時代にはあまり登られていないと思いますので、私の登ったところとは違うのでしょうね。
pamir88さん、度々有難う御座います。
ゲレンデクライマーですか。
云いえて妙と云えますね。
昔はボルタリングやフリークライミングという概念はありませんし練習専門の岩場もインドア練習場もありませんから、ゲレンデクライマーという言葉も無かったように思います。
ゲレンデという言葉はツアースキーに対するゲレンデスキーとして多く使い、難易度には関係がありませんでした。
ゲレンデクライマーは1970年代のアメリカンアルピ二ズムの興隆以後の概念でしょうか。
昔はゲレンデを大地の場所、訓練の場所という概念で云ったように思います。
合宿訓練に伴う概念でその目的に使われる訓練場所を指し、合宿地から訓練場所への経路をアプローチ、合宿地をキャンプと呼んでました。
目的が合宿訓練であれば、難易度にはかかわらずそう呼んでいました。
訓練外で自由に通過するときはゲレンデと云いませんでした。
連日のように同じ場所に通って訓練で登り下りを繰り返すとゲレンデと云う様になりました。
谷川岳一の倉沢も会として訓練で行くときは、一の倉全体がゲレンデでした。
ピークハントや縦走はボッカ訓練だけでしたから殆んどの活動が訓練場所の上り下りだったのです。
先輩達もよく知っている場所が訓練しやすいので同じ場所ばかり上り下りします。
私もそのほうが後輩を訓練しやすかったのです。
しかし我々の会の独特の言い回しだった可能性もありますね。
会報には、そのように書いて外部にも出してましたけれど〜。
そんな訳で私は行った山が極端に少なくなってしまいました。
貴兄の登られた外国の7000メートル峰は憧れただけで終わりでした。
国内の山だけしか知りません。
しかも北海道、九州、四国、中国、近畿、東北北部の山を知りません。
100名山を問われると全滅の状況です。
自分の足では富士山の3776メートル以上に上ったこともありません。
同じ場所に何度も行きましたが、それでもとても楽しかったです。
時に同じ場所の上り下りばかりしていたことを少しばかり残念に思う事もあります。
でも総じて楽しい山登りをさせてもらったとの思いが強いのです。
ゲレンデの語彙につき色々教えて頂き、ありがとうございました。ainakaren
追伸・第2次RCCのルートは、私が引退した後に開拓されたので1950年代の末頃は有りませんでした。
貴兄の登られたルートと同じルート名称でも当時と異なるかも知れません。
「山に祈る」……懐かしい思いに浸り、ついコメントを差し上げる次第です。
自分自身が人前で歌ったことはありませんが、学生時代に、山も合唱も好きな友人がいて、
彼の部屋で何回か男声四部版を聴きました(オープンリールのテープデッキの時代です)。
確か上智グリーの定期演奏会だったかの録音で、曲の生い立ちも教えてもらいました。
「山の歌」「リュックサックの歌」はDurで溌剌と始まりますが、朗読が重く響きました。
後半のmollの曲は辛く、遭難事故の不幸と不孝、そして不条理に思いを巡らせました。
それが「昭和」の最終楽章を迎えたころのこと、曲ができたのはその20年近く前でしょうか。
ある朝、件の友の家で自分の購読紙とは異なる新聞を開くと、何と我が校は休講と書いてある。
二度寝して昼に読み返えしたら「10年前の記事」というコラムだった、という落ちがあります。
同じ「昭和」でも、学園紛争で休講が相次いだ大過去と、「モラトリアム人間の時代」が。
あれから30年、さまざまなことに興味を持ち、最近は低山歩きを楽しむようになりました。
来し方をレビューする機会をいただきありがとうございます。年齢相応の歩きを心がけます。
Rheingoldさん、こんにちは、お久しぶりです。
上智大山岳部員の遭難事故でしたから、同校のグリークラブは「山に祈る」の上演に力を入れたことでしょうね。
当時は学園闘争、安保闘争、デモ行進と乱闘の時代でした。
人間らしい静かな環境は街の中には無く、それを嫌って山に登る人も多くなりました。
山岳遭難の急増にはそうした理由もあったかも知れませんね。
合唱組曲「山に祈る」が公開されて今年は51年目になります。
そして私自身もそのとき「山に攀る」から「山に祈る」人生に変りました。
今も祈りつつ登っています。
ご無事な山歩きをお祈りします。ainakaren
ainakarenさん今晩は、いつも興味深く読ませてもらっています、
山に祈るを見させてもらいました、「お母さん、ごめんなさい」この言葉を思い出しました、
昭和40年3月北大山岳部のの沢田義一さんの大和書房出版の「雪の遺書」の中に、
「お母さんお父さんごめんなさい。一足先に行かせてもらうだけです」雪崩に遭いその中で必死に脱出しようとし、
ついに諦め遺書を狭い雪の中の空間で書いた遺稿集です、私の先輩も技術や経験があっても自然には勝てず雪崩で亡くしました、
この頃は結構、山岳雑誌や登攀記録など貧乏でも皆んな読んで憧れていましたよ、
劔・穂高・谷川の初登攀者の名前は大概知っていまし、その凄まじい初登攀の闘いなどを読んで興奮したのを覚えています、
今小さな本棚にもさすがに山渓や岳人は整理しましたが、
長野・富山・谷川の山岳警備隊の悲痛な叫びの記録の本やヨーロッパや日本の著名な登攀記録の本が数冊残っています、
私自身たいした登攀などないですがそれでも今の人の山の登り方は優雅で贅沢ですね、
ヤマレコを見ていると車での山行が多いのにはびっくりです、
ainakarenさんの時代は列車での夜行日帰り座席の下や通路で寝るのが当たり前だったと思いますよ、
それにどこまでも歩くのが当たり前、今みたいに危ないところは鎖場などなしですから、
それを非難しているわけではないですが、私達の時代は登る山にも順序があったと思いますし、
ボッカや雪上の滑落訓練、ゲレンデの岩登り練習でリーダーが各人の技量や体力にあった山行計画をたてたものです、
当時のチーフリーダーは今は70代半ばだと思いますが、今だに劔や穂高の岩場を登っています、
さすがに10代と人との山行は年齢差が出ているようですが、それでも若い人に信頼されているようです、
naiden46さん、こんばんは。
懐かしい時代のコメント有難うございます。
70代半ばの同年輩の人達が、山で頑張っているのは喜ばしいことですね。
私も里山歩き程度ですが、細々続けております。
登山を廻る環境も大進化して、随分便利になりました。
それはそれでとても良いことと思います。
これからの若い人達に、大いに期待したいと思います。
昔よりチャンスが格段に多いのですから、頑張って、かつ楽しい想い出を沢山作って欲しい〜、それが我等、老兵の願いなのです。
ご無事な山歩きをお祈りします。相仲
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