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福澤諭吉の父福澤百助は中津藩の下級武士でした。当時は門閥制度といって身分は固定。いくら職務に精を出しても出世は望めません。百助は、諭吉には門閥制度から離れて自分の力で名をなすことができる寺の坊さんになってほしかったそうです。諭吉は「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と言って中津を出て、二度と戻ることはありませんでした。
著名人ゆかりの街は、その人を前面に出してアピールするのが一般的です。でも中津市、中津耶馬溪観光協会のホームページには福澤諭吉の「ふ」の字もなく、冒頭の1万円札中津城は異例です。2024年発行予定の新一万円札肖像の渋沢栄一出身地の深谷市とは対照的。なにしろ深谷市ホームページは、トップバナーが「郷土の偉人 渋沢栄一」です。
「門閥制度は親の敵」とまで言われて、中津市は「福澤諭吉の街」などと観光に利用することはできなかったのでしょう。諭吉が生まれたのは大阪の中津藩蔵屋敷だから、中津は「生誕地」でもないし。
もしかしたら、観光に利用したかったけれど慶應義塾に「福澤先生は中津にいい印象持ってなかったし」と断られたのかもしれませんが。
読売新聞オンライン『福沢諭吉の1万円札「6億円分」、裁断し中津城の模型に』
https://www.yomiuri.co.jp/national/20240116-OYT1T50217/
その学校には仕事で偶に訪れるのですが、慣れ親しんだ学校名からその偉人名に変更された時は、仕事以外接点の無い私でも違和感を覚えました
そして件の偉人が印刷されたお札は、思いのほか早く他の偉人へと変更されてしまい、お札の顔で無くなった学校名はそのまま存続しています
自分が以前住んでいた安城市も新見南吉推して駅前とかすごいペイントされてたりしたんですが、
半田の生まれだし、そんなに関係ないんじゃ・・・みたいな疑問ありました。
まだ推してるのかなw?
三河ですと吉良推しでしょうか。西尾市観光協会のホームページには「吉良上野介義央公は忠臣蔵で赤穂浪士により仇討ちをされる悲劇のお殿様。地元では名君として知られており・・・」とあります。
そうなんです。吉良上野介は三河では”名君”ですw
中津藩の有名人と言えば前野良沢もですね。この人も江戸詰めで中津に行ったのは一度きり?ですが。蘭学に許容的な藩風はいくらかでも福澤諭吉の人生に影響しているように思うので、中津の人が好きならば図々しく推していけばいいと思います!
お札つながりでは、松山だって『坊つちやん』では無茶苦茶ディスられていますが、坊つちやん推しですし。
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