常設展は、ボランティア解説があり、江戸と明治の部屋だったが、私一人だったので、古墳時代の解説をお願いした。古墳の部屋の前に一昨日、よく見なかった土器(縄文から弥生)からはじめた。ここの展示の目玉として、赤く塗られた弥生土器を紹介した。この大宮公園造成前の発掘で出土したものだ。赤色の材料に関しては、質問し損なった。次に方形集構墓。3世紀(卑弥呼の時代)ー弥生晩期で集落内に有力者が発生し、階層分化が始まったことを示しているが、この時代の階層分化と古墳時代との境界の線引きは難しい。
埼玉周辺では弥生遺跡の数が少ないそうだが、武蔵野国全体では、「樽式土器」(神流川)「吉ヶ谷式」(埼玉中央部)「弥生町式」(埼玉南部以南)の三つの地域に分けている。ただし、「樽式」は明治大学の杉原壮介氏による古い分類で、埼玉北部の一部から群馬の神流川周辺とされているが、現在はこの分類を支持する学者は少ないそうだ。卑弥呼の時代から100年経ち、4世紀以降、大型の古墳の築造が始まる。またこの博物館の目玉である鉄剣の複製品について、以前、さびついた鉄剣では金錯銘は見えないので、この複製はおかしいーー検索名が見えるなら、ピカピカの剣の複製であるべきだという見学者の意見が出たことなどの話があった。なるほど、それは一理ある。たしか金ぴかの複製品も作られたような記憶があるが、それは倉庫に保管してあるのかな?出土した行田の埼玉史跡博物館では、設備・技術が不十分で、県立博物館が所蔵することになったというようなことがおぼろげに記憶にあるが――。比較展示してある江田船山古墳出土の鉄刀複製品の解説には、八十練、六十据、三寸上、好□刀として、上三寸に高質の鋼が使われていることを示している。
また埴輪のところでは深谷の山崎山古墳から出た家形埴輪に戸がついているのが珍しい、と教えてくれた。また。須恵器の伝搬などについて話をしていただいたが、時間が無くなり、地下の地秩父札穂の展示室に向かう。
11時から担当学芸員の加藤氏による展示解説が始まった。7〜8人の参加があった。
初心者ばかりなので、秩父札所の基本的なことから解説が始まった――そのため、なかなか展示の錦絵や刷り物の具体的な解説に行きつかないーー。札所巡礼は西国3カ所、坂東33カ所、最後に秩父33カ所(のちに34カ所)の順に始まり、最初の西国33カ所観音霊場は、観音信仰が流行る平安時代、源平合戦の戦乱の中、天皇家が平和を祈願して観音霊場の巡礼を始めて、札所を整備したらしい。中山寺縁起などではそれより古く、養老時代に端緒があり、花山法皇が巡礼を再興したとの記述があるが、史実とは違うというのが定説らしい。また坂東三十三カ所霊場は、鎌倉幕府の初期、京都の公家を中心とした勢力に対抗するため、精神的な権威を強めるために設置したらしい。秩父の場合は室町時代、国内各地で進められた観音霊場の整備の中で、応仁の乱以降の群雄割拠時代、秩父郡を支配する丹党中村氏が、領民の結束を進めるために整備したという。開設の年は明確でないが、残された札などから1488年までには成立していたようだ。その後、16世紀の初めに西国33と坂東33に合わせて100霊場とするために、もう一つが追加され、34霊場となったという。これは、小さな範囲で人口も少ない秩父郡の札所が生き残るためのPRとして、積極的な巡礼誘致がなされたようだ。寺社の経営基盤の強化が背景にあったらしい。また午年の開帳(今年はそれにあたる)は、秩父霊場の開設が甲(きのえ)午という伝承(史実ではない)、馬が観音様の乗り物だったという伝承、馬頭観音の存在などから始まったらしいが、経営問題が大きかった秩父で盛んになり、総開帳が行われるようになったが、他の霊場ではこのような総開帳は行われていないようだ。秩父の開帳の最古の記録は元文3年(1738年)の戊馬(つちのえうま)年の開帳で、寛永三年(1750年)の開帳では5万人が札所を訪問したという記録があるようだ。なお、2002年(平成14年)の開帳では8万人が訪問している。
観音霊場札所が33という理由は病気や悪行の反省などなど、ヒトの悩みが無数にあることに対して、観音様が変身して救いを与えるという変化観音の数が33で、33は無限を表すものらしい。観音様(鳩摩羅什の漢訳では観世音菩薩)は、中国よりも期限が古く、インド、チベットで現れた観音像の起源は、ゾロアスター教のアナーヒターにまで遡るという説もあるようだ。
また秩父の札所が一層盛んになったのは江戸時代だが、札所の番号もそれまでは秩父盆地の住民の回りやすい順番だったのが、江戸からの巡礼者に回りやすい順番に換えられたという。特に秩父札所巡礼が盛んになった背景には、先の秩父の札所の特殊事情の他に、江戸から庶民が巡礼するのに、秩父は関所を一度も通らずに行き来できる点があげられる。これよりも近い著名な寺院でも関所を通らねばいけない場所が多く、気楽に巡礼できる点も受けた理由らしい。また経営難で巡礼PRのために、浅草などにご本尊を出してPRまでしたらしい。
そうした流れの中で江戸時代の刷り物や浮世絵で、巡礼ガイドブックのようなものが多数出版された。刷り物とは墨摺りの単色の出版物で、札所巡りのガイドを兼ねているが、各お寺の詳しい説明、順路の説明の他、境内伽藍、ご本尊などの絵図が書かれ、またご本尊の絵は単体でも札所で販売されていたようだ。展示されている錦絵は二代目歌川広重の札所図とその札所の伝承の絵(豊国と国定)が組合わされ、 また戯作者による説明文がつけられて、漢字にはカナルビがうってあり、庶民でも気軽に読むことができたようだ。 また錦絵は一枚300円相当で、かけそば一杯の値段で買えたことも、こうした錦絵ブームに拍車をかけた。各札所の伝承も実に面白おかしくできており、巡礼ブームが続いたようだ。
最後に納経書の展示があり、本来は法華経などの写経を行って治めるのが本来だが、時間がない人は台紙やノートに御朱印を押して、札所を回った証拠にするという、これも巡礼者へのサービス兼札所の経営に資するものとなった。納経書の時代ごとの変遷の展示もあり、江戸時代の納経書の出展は残念ながらできなかったが、近代に入って、もともと手書きの墨書で神社名などが書かれていたものが、印刷になり、近年再び墨書に戻っている例などを展示してある。
写真1)弥生後期、方形周溝墓から出土した赤く塗られた土器(米や木の実保存用)
写真2)珍しいとのついた家形埴輪
写真3)秩父札所の錦絵と摺物展示入り口
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する