「江南」とは荒川の南部のこのあたりの古い地名らしい。熊谷は暴れ川の荒川や利根川にはさまれて低地の多い土地、流路の移動も激しく、旧石器時代や縄文時代の遺跡はほとんどないのが特徴。低地では弥生中期以降の遺跡が多いようだ。関東平野の西端に近い熊谷地域は利根川の河岸段丘で標高25m前後、荒川右岸段丘で標高35m前後、江南地域は比企丘陵の末端と荒川低地より1m飛行差のある段丘との間にはさまれた台地らしい。比企丘陵は外秩父山地から延びる舌状の丘陵地帯だ。江南台地の東端の揚井(やぎ)で標高45m前後、西端の寄居で標高140mくらいあるらしい。縄文遺跡は熊谷しないでは主として江南台地側にあるようだ。もっとも近年の町村合併で遺跡を命名したころの地名とは多くが異なり、遺跡を探すのが難しくなっている。
平成大合併で旧熊谷市+大里郡妻沼、同大里町、同江南町が現熊谷市となっている(人口20万人)。江南は旧大里郡で、古くから江南と呼ばれていた地域らしい。
さて、熊谷駅から循環器病院雪バスに乗り、大沼公園バス停下車、大沼公園とは反対方向にある総合文化会館方面に向かう、その手前に文化財センターがある。入口付近には熊谷市西原遺跡の縄文中期の石鏃の素材剥片から未成品ー製品の流れを展示したものや彫刻刀形、ナイフ形、尖頭器など西原遺跡や塩西遺跡など(いずれも江南台地か?)西原遺跡では大量の石鏃や未成品が出たらしく、剥片原料から製品までの過程のわかる展示があった(写真1)。
次の写真2は前中西遺跡出土の土偶型容器。前中西遺跡は弥生中期から平安時代にかけての遺跡で、荒川と利根川の間にはさまれた妻沼低地に立地し、その中でも新荒川扇状地に立地しているようだ。妻沼低地では縄文時代以降の遺跡が河川の自然堤防上に発見されることが多く、また従来発見されなかった縄文晩期から弥生前期の遺跡が北島遺跡で見つかり、晩期以降人の活動が途絶えたわけではなかったことが再確認された。縄文後晩期に多い土偶は女性に妊娠・出産に関係する祭祀具と考えられるが、関東や中部地方の弥生中期初頭の遺跡から出る土偶形容器から、新生児の葉や骨が検出されることがあり、出産を無事に乗り切ることが容易でなかった時代の人々の願いを示しているようだ。この気持ちと形は縄文時代も弥生時代も変わっていない。近年、熊谷市諏訪木遺跡からはほぼ完形の土偶型容器が出土し、注目を集めたらしい。
写真3は同じく前中西遺跡出土の石戈や環状石斧で、大陸では新石器時代の武器として使用されたものだが、列島ではおそらく、銅剣銅矛などと同様、武器から祭祀具へと変容したものと思われる。石戈の原型は中国大陸の騎馬戦で使用された銅戈だが、その模倣品である石戈は朝鮮半島では未発見で、北九州を中心に列島で作られたものらしい。一方環状石斧は世界中の新石器文化から出てくる武器型の磨製石器で刃部を伴う。朝鮮半島から伝わったと考えられるが、列島では武器として使われたかどうか不明らしい。異文化集団のぶつかり合いが少なかった列島では武器系の道具が祭祀具として使われる例が多いようだ。
また写真以外に古墳時代の遺物も多数展示しており、東博にある踊る埴輪はよく知られているようだ(レプリカがある)ー現在東博にある踊る埴輪は江南台地にある與原古墳群(現在は消失)で発見された著名な埴輪だ。踊る埴輪以外にも興味深い様々な埴輪や鉄剣などの鉄製品や弥生時代の様々な石器・石製品が展示されていた。当日、明治大学で陶磁器などの勉強をされた同センターの職員の方がいろいろ新設に質問に答えてくださり、資料もたくさんいただいて大変ありがたかった。お礼を言って同センターを後にして熊谷駅近くの八木橋百貨店のほるたま展会場に向かった。
写真1)熊谷市西原遺跡の縄文中期の石鏃の素材・未成品・製品
写真2)同市前中西遺跡の弥生時代の土偶型容器
写真3)同遺跡出土の環状石斧・石戈など
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