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2018年11月26日 20:30博物館、展示会、美術館など全体に公開

2018年11月17日(土)大阪・奈良考古博物館めぐり(文化財ウィーク入館無料デー)

写真1)大阪府立弥生文化博物館「古代エジプト展の展示解説風景」
写真2)今年4月にオープンした唐古鍵史跡公園の弥生祭り風景ー後ろに金剛山地
写真3)遺跡発見のきっかけとなった唐古池と学芸員さんの解説風景

翌日の橿考研友の会主催の京都太秦・嵐山秦氏関連遺跡見学会に参加するため、関西に向けて出発、前日大阪と奈良の考古博物館と遺跡見学をする。始発の新幹線でまず新大阪に出て、そこでレンタカーを借りて出発、まず大阪歴史博物館で最新発掘展を見る。今日はうれしいことに関西文化財デーでどこも入場無料(行ってみて気づいた)。2018発掘展では、府内の弥生時代から江戸時代までの様々な最近発掘された遺構や遺物の展示がなされ、特に平野区喜連西遺跡の庄内新式から布留式古段階(3世紀中葉〜後葉の大型方形周溝墓とその出土品に注目、様々な土師器などのほかに緑色凝灰岩製管玉などの副葬品があり、この時期(ヤマト王権最初期)の地方有力者の埋葬の様子を知ることができる。大阪歴史博物館といえば、同地域に存在した難波宮遺構で知られる。難波宮遺構周辺から出土した様々な出土品や遺構復元展示などを見る。難波宮遺跡は7世紀の前期から8世紀の後期難波宮まで様々な遺構が検出されているが、さらにその下から6世紀から7世紀前半にかけての難波宮下層遺跡という大化前代の遺跡が発見され、さらにその下から5世紀前半の大型倉庫群の遺構が発見され、ヤマト王権形成期の重要遺構として国指定史跡となっている。これらの出土品などを見学し、10時過ぎに次の目的地府立弥生文化博物館に向かう。湾岸高速を経て信太山の著名な大型弥生遺跡の池上遺跡の近くにある博物館駐車場に車を入れる。ここでは古代エジプト展が開催中で11時から展示解説があるのでそれに参加=写真1(無料デー)、今回の古代エジプト展のポイントは巨大なピラミッドやファラオの栄華よりも人々の信仰や暮らしの在り方などにも焦点を向けた展示らしい。古代エジプトの神々と動物(信仰の対象)、言葉と文字、職人―筆記具、秤、食卓―パンとビールとワイン、ファッション、ミイラと冥界などのポイントを学芸員の中尾さんが簡単に解説してくださった。特に注目はツタンカーメンのミイラの複製。かつてメトロポリタン美術館でミイラの3Dが王から作成した複製だ。ミイラ自体は門外不出で巡回できないので2012年の世界巡回展の際、フジテレビが出資してメトロポリタン美術館で作成したものらしい。ガラスケースを外して間近で見ることができた。
 12時を過ぎ、急いで次の見学地の太子町にある竹内街道歴史資料館に向かう。高速を降りて車一台がやっとの細い道で対向車とのすれ違いを何とか切り抜け、孝徳天皇陵のある丘陵の南東裾にある竹内街道資料館に到着。私も数年前に竹内街道につながる奈良の横大路から竹内街道接続点手前で當麻寺方面にチャリで出かけたことがある。今回は大阪側から太子町の竹内街道に立ち寄る。資料館には、サヌカイトを求めて往来する石器時代人から遣唐使時代の大陸との往来の道、様々な場所の遺跡から出土する様々な時代の遺物が展示されている。また西国観音巡礼に係る道として、中近世の巡礼に関し「観音開帳」という企画展も行われていた。
 資料館で推古陵や二子塚、小野妹子墓の生き方を確認し、次の見学予定地、推古天皇陵に向かう。近道をしようとして細い田舎道に入ってしまい、かえって時間がかかったが、なんとか推古陵に到着、宮内庁陵墓なので、味気ない同じ様式の柵と陵墓名の書かれた標識がある。この少し先に国史跡の二子塚古墳があり、ここからは徒歩で行くしかなさそうだが、やはり時間が足りそうもなく諦めて近つ飛鳥博物館に向かう。ナビに従い、近つ飛鳥を目指すと、当初道を間違えて推古陵の周りをぐるぐる回ってしまうが、何とか脱して近つ飛鳥のメイン駐車場に到着、遠い方の駐車場に出るのではとヒヤヒヤ。階段を上って博物館内に入る。入口にはお目当ての「4世紀のヤマト王権の対外交渉」の案内ポスターと「本日無料」の看板。うれしい。今日は関西方面の主要な博物館などが無料デー。見慣れた常設展の中を通り、特別展の入り口に出る。残念ながら写真撮影はできないが、まず、七支刀や広開土王碑文などの4世紀にかかると推定できる文字資料に始まり、4世紀の朝鮮半島と列島の古墳などから出土する倭系文物、半島系文物の比較などから、双方の交流の様子を推定する。4世紀は魏志倭人伝に卑弥呼時代の記述があり、また5世紀には宋書などで倭の五王の記述があるが4世紀ではそうした外交記録はなく、空白の世紀といわれている。七支刀・碑文などの同時代史料や後に書かれた三国史記・日本書紀などの史料からは、自国の正当性を主張するための誇張が多いものの、倭国が半島に出兵したことは事実であろうと推論する。また考古遺物に関しては、筒形銅器、巴形銅器、鏃型石製品などは半島南部の大成洞や福泉洞古墳などから出土し、一方列島ではメスリ山古墳など多くの西日本の古墳などから筒形銅器や鏃型石製品などが出土している。特に金官伽耶時代の古墳の多い大成洞からは多くの倭系遺物が出ているが、一方福泉洞からは筒型銅器に偏っている。このうち筒形銅器は当初は倭系遺物と思われたが、近年では半島から列島よりも多くの筒形銅器が発見されており、半島製ではないかと考えられるようになっている。この時代、鉄素材と考えられる鉄鋌の出土は北部九州に少なく瀬戸内地域に点在、ヤマト王権や有力首長による政治交渉が行われた可能性があるようだ。しかし、この時代、定まった王統による強力な王権が成立していたとは考えにくく、大陸・半島との交渉・交易は王権だけでなく様々な勢力によって担われたと推定できるようだ。また4世紀の古墳の副葬品を見ると、当初は中国鏡などが重視され、また銅鏃や車輪石・鍬形石など、威信財的なものが多く、次第に武具・武器などが多くなっている。こうした鉄製の武器・武具や農耕具などは実用品というよりもある種の威信財として副葬された可能性が高いようだ。激変する半島情勢の中でヤマト王権や列島の各地の有力者の状況も揺れ動いている。5世紀の倭の五王の時代に入り、次第にヤマト王権の力が充実していくとみられるが、その権力基盤はまだ危うく、各地の有力者の支持があって初めて成り立つものであったかもしれない。全体として、これまでの知識を整理するのには役立ったが、なぞの一つでも解けたわけではないが、それは期待しすぎというものか?
 さらに近つ飛鳥から県境を越えて田原本町の唐古鍵史跡公園にでかける。唐古鍵史跡公園や遺跡がナビに出ないので困ったがスマホナビを活用し、なんとか史跡公園に出たが駐車場の位置がわからず右往左往した。今日は弥生のムラ祭りが開催され、15時半を過ぎていたのでほぼ終わる状況だった。公園となってから初めての訪問だったので、広い史跡の中を歩き始めると、遠くに奈良盆地周辺の山々hが見える(写真2=おそらく金剛山系、中央の高い山は葛城山か金剛山か?右の低いところが竹内峠?)。シンボルの楼閣を過ぎて唐古池方面に向かうと、人だかりのグループを見つけ、近寄ると史跡公園を案内する学芸員さんと参加者であるとわかり、しばらく説明を聞き入った(写真3)。

 その後、やはり今年の春リニューアルされた唐古鍵ミュージアムを見学し、大阪に戻る。予定していた法円坂で開催された考古学研究会例会に少し遅れて到着したが、「群集墳から見た古墳時代の家族と集団」というテーマの発表を聞くことができた。これまでの古墳研究者の見解とかなり異なる見解が文献史学舎から出されていることに今後真摯に向き合うべきという発表の趣旨だった。古墳時代の親族や集落は大変不安定で、これまで古墳学者が主張してきたような家父長的な相続による世襲権力の出現は成立せず、こうした視点を含めて、群集墳や古墳と被葬者、その親族・家族関係などを再検討すべきという。
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