はじめに、尾坂の船橋遺跡などから出土する弥生土器などの話。縄文時代晩期から弥生時代に移る時期に土器がどのように変化したのかーー縄文時代には浅鉢や深鉢などが「多いが、弥生時代には壺、甕、高坏など、土器の種類に大きな変化がある。その背景には水田耕作が導入され、社会が大きく変化していくさまが反映されているようだ。弥生中期には半島・大陸技術である回転台(ろくろ)が導入され、後期には、「たたき」の技術(これも半島経由技術だろう)が使われて、回転台が使われなくなる(土器の形がゆがんでいる)−−「叩き」により土器が薄くなると熱効率がよくなる。この辺りの背景はまだまだ分からないことが多いようだーー。その後、弥生の石器と縄文との比較、弥生の新しい技術の関する話ーー極めつけは漁労技術で、大阪と言えば「たこやき」−−その「蛸壺」が出土しているということだ。見た目は小さいが、専門家の鑑定によれば「イイダコ」をとる蛸壺らしい。この蛸壺は日本―大阪独自のものという評価だったーー。たこ焼きの大阪らしい技術化か??−−その後、「銅」製品の話。銅矛・銅鐸・銅戈(どうか)に関しては、北九州と近畿などとは、かなり違いがあるらしい。土器の場合、この時代はまだ野焼きが中心であるとすれば、窯跡は残らず、生産地の特定は困難だが、おそらく集落単位で作られたものが多いだろう――(縄文時代から移動、流通もあったが)。一方、これらの銅製品の生産は、石の鋳型や鉱滓のようなものの発見で、いくらかはわかっているが、有力者のレベルだけでつかわれたのか、もう少し広い範囲でつかわれたのかはまだわからないようだ。少なくとも村レベルの遺跡ではでてきておらず、大量に埋められている場所が発見されているだけらしいーー。縄文晩期から弥生への移行期、弥生から古墳時代など、実際は連続的な変化であっても、それをどこで区切るかは難しい問題だ。−−、1万年の長きにわたった縄文社会から水田耕作、金属器の導入、武器と戦争の始まり、階層・国家の出現など急速に変化する社会の中で、土器も金属器もその変化を反映し、また技術の変化が社会の変化を促すという一般論としては理解できるが、実際の遺跡や出土品から解明することは容易でなかろう−−。短い時間ではあったが、弥生文化の理解が少し深まり、参加してよかった。その後、平成館で人間国宝展(常設展入場料だけで入れる――現在は別に平成館二階でクリーブランド美術館展(特別展)も行われているー)、常設考古学展示などを見て、吹きすさぶ雪の中を家路へと急いだ。
写真1:本館2階のギャラリートークの会場
写真2:近畿式銅鐸
写真3:弥生時代の蛸壺
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