伊万里展を見るため、久しぶりにサントリー美術館に出向く。10時前、小田急から千代田線経由で乃木坂へ。霧雨の中、三番出口からミッドタウンに向かう。昨年最初に来た時は霞が関経由日比谷線六本木駅から地下を歩いたかな?乃木坂から歩いたのは初めてかな?いや、以前、病院か何かで母と歩いたことあったかな?−−いやその時も六本木からだったようなーー。外苑東通りに出て南東方向を見上げるとミッドタウンが見える。そこをめざして進む。11時前なのでミッドタウンへの入口は少し中央に進んだ場所。人が入っていくので後を追って中に入る。正面突き当りを右に行くとミッドタウンウエストに出てしまう。左奥がガレリアだ。ガレリアに戻り、左奥に進むと美術館に向かうエレベーターがあり、4Fで降りて美術館入口に入る。会員カードで受付を抜け、展示室前で音声ガイド(500円)を借りる。
展示構成は
1)伊万里、世界へ(1660年〜1670年代)
2)世界を魅了したIMARI 1670〜1690年代
3)ヨーロッパ王侯貴族の愛した絢爛豪華1690〜1730年代
4)輸出時代の終焉 1730〜1750年代
となっている。
音声ガイドでも、中国の明から清への移行期の混乱で景徳鎮での磁器生産と輸出が止まり、伊万里ー長崎からの輸出が始まった1659年以降、当初中国の景徳鎮の写しから始まる様子が開設されていた。10年くらいの間に瞬く間に景徳鎮に引けを取らない技術を獲得し、次の柿右衛門様式の出現を準備している。染付や色絵の詳しい技術的な問題はまだまだ十分理解していないが、流れは理解できる。赤、青、緑、黄色、金などを自在に使い、長い中国の陶磁器のデザインとは一味もふた味も違う日本独特の美意識、感性で描かれる繊細かつ艶やかな世界に、欧州貴族が魅了されることは十分納得できる。ただ残念ながらこの柿右衛門様式の輸出は10年余りの短期間で終焉を迎えたのは意外という以外にない。なんでも五代目柿右衛門の技量に問題があり、1685年に鍋島藩から取り扱いを停止されたとのこと、初代柿右衛門が赤絵付けに成功したのが1640年ころ、以降50年くらいの間に酒井田家の陶工やその周辺の多くの技術者の中で、5代にわたる柿右衛門集団が存在したが、技術の問題なのか、濁手と呼ばれる乳白色の白地を作るための土に問題があったのか、よくわからない。濁手は近代になってから、再興の努力が払われ、1953年にその復活の技術的な達成がなされて現在に至っているようだ。
柿右衛門様式の磁器が停止しても、欧州への輸出は止まらなかった。18世紀になると、金襴を豊富に施した豪華な磁器が多く登場する。ロココ調の流行する欧州貴族社会の趣味と合致したらしく、宮殿、邸宅の装飾を中心に大型のセットの壺、大皿などが輸出されたが、枚数では日用品の洋風のティーセットなどが多かったようだ。これらは輸出オンリーで国内には出回らなかったので、何らかのルートで日本に里帰りしたものだ。コレクターの情熱、財力には驚かされる。18世紀には欧州でも磁器生産の拠点であるデルフトやマイセンなどが現れ、景徳鎮輸出攻勢とともに、日本は価格競争などで敗れ、1757年には輸出が途絶える。たった100年の伊万里の輸出の歴史の中でも、原料や薪生産などで、原料枯渇や森林枯渇の問題が出てくるのに、景徳鎮はより大規模な生産体制があるのに、こうした問題はどのように対処したのか知りたくなる。
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