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今回の講師は梅澤重昭氏、明大で考古学を学び、群馬県教育委員会、県立歴史博物館、群大教授を経て退官、昨年は榛名町史編纂に携わった。
梅澤氏は、奈良県の大和・柳本・箸中古墳群と群馬県を主体とした上野国周辺の古墳群とを比較、古墳の造成がどのようなプランでなされているかを分析、その結果、例として奈良の箸仲古墳と前橋八幡山古墳の場合、前橋は規模は二分の一だが、プラン、寸法の比率などはほぼ同じで。また奈良の渋谷向山古墳と前橋天神古墳もプランは箸仲の場合と少し異なるが、両社はやはり同じプランで作られていること。その寸法は「晋尺」を使っていると考えられること。そのほか多数の古墳を比較して、プラン、各部分の寸法の比率など、大和政権中枢の古墳と群馬・上野国の古墳のプランがぴったり一致するケースが少なくないこと、そしてなぜそうなのかを検討。土器や副葬品などからもその関係を論じ、最後に日本書紀の記述を分析し、3世紀から5世紀にかけて大和政権が全国を平定していく過程を古墳や土器・副葬品などとの関係を含めて検討した。
1)崇神天皇10年の条:まだ大和から遠い地域では王の法に従わない勢力があるので、四方に使者(軍隊)を送って「朕が憲(わがのり)を知らしめよ」「天彦命を北陸に」「武淳川別(たけぬなかわわけ)をもて東海へ」「吉備津彦をもて西道へ」「丹波道主命をもて丹波へ」「若し教を受けざる者あらば、兵を挙げて伐て」
2)崇神天皇48年の条:天皇が息子兄弟の後継者争いで弟の「活目命(いくめのみこと)」を後継者に(垂仁天王)、兄の「豊城命(とよきのみこと)」を東国に派遣してこれを支配させるとしている。そしてこれが「是上毛野君・下毛野君」の始祖なりとしている。東国はこの時代以降、天皇の直轄支配地となったというわけだ。
景行天皇55年の条:豊城命の孫の彦狭嶋王を東山道15か国の都督(かみ)として赴任する途中、愛知県春日井市あたりでなくなってしまう。東国の百姓(おおみたから)はそれを悲しんで遺骸をひそかに盗み、上野国に埋葬した。翌56年八月、その息子の御諸別王(みもろわけのみこ)が再び父の代わりに東国を治めるために赴任し、蝦夷の反抗を抑えて平定し、その子孫たちが東国を治めていくーーなどと記されている。こうした記述が古墳や土器、副葬品などの比較、検討を重ね合わせ、東国が中央政権とどのような関係が築かれていったのかを検証、面白かったのは、弥生時代末の東国は、群馬県の西部は多くの遺跡があり、すでに集落や耕地が開かれていたが、東部平野はまだ開発されずに残されていたらしい。3世紀頃、力をもった初期国家である大和が最初、船を使って海岸沿いに屯田兵のような人々=軍隊+開拓農民=を送り、美濃から東海、あるいは関東の沿岸部、北陸などに入植、福島、会津など東北の一部も沿岸沿いに入植し、開拓したが関東群馬東部平野は海から遠く、開拓がまだだった。そのために陸路で屯田兵のような形で軍隊と農民を入植させて開拓、利根川に出てそこから関東沿岸部をつなげていったーー。そうしたプロセスが東国、東北へと広がり、日本全国を支配する体制を築いて最終的に律令制国家を確立していった、というのである。
この説明はこれまで学んだ諸説と比べても非常に論理的でかつ、考古学的な証拠と日本書紀などの文字資料との関係をすっきり説明しており、大変参考になる見方で感心した。講演の時間が10分近く延び、それから友の会の皆勤賞者の表彰その他の行事があるが、バスの時価が迫ったので、途中退席。
帰路は別のバスで前橋駅に出て草津号に乗り換え、赤羽経由で帰宅した。
(写真1:八幡塚古墳、写真2:古墳から見る榛名山、写真3:赤城山方面)
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