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○ 2つの「寝物語の里」のお話
( 柏原保育園編集の絵本 「ふるさとだいすき!柏原学区の昔ばなし」 より転載。)
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( その1 )
むかしむかし、ある日の夕方、粕原宿をお伊勢参りのおじいさんと、
富山の薬売リの若者がいっしょに歩いていました。
ニ人はとちゅうで知リあい、すっかりなかよしになったのです。
「 今晩、わたしは長久寺の亀屋という宿にとまリます。 旅は道づれ、ごいっしょしませんか 」
「 いや、わたしたち薬売リは、今須の両国屋さんときまっているんですわ 」
長久寺の東はずれには、幅五十センチほどのみぞがあリ、ここが近江と美濃の国境になっていました。
亀屋と両国屋は、みぞをはさんで、となりあって建っていたのです。
夕食をとリ、お風呂に入ったおじいさんは、
「 明日もはやい。そろそろねるとするか 」と、ひとリ言を言いました。
すると、となリの両国屋にとまった薬売リの若者が 「 おやすみなさい 」と、声をかけてきました。
「 なるほど。 この近さなら寝ながらでもはなしができる。 寝物語の里とは、よう言うたもんじゃ 」
それから二人は、夜おそくまで楽しくはなしあったということです。
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(その2) こんなものがたリも、つたえられています。 …
源平の合戦で、大かつやくした源義経。
しかし、ささいなことで 兄・頼朝となかたがいし、弁慶らわずかの家来と奧州におちのびていきました。
その後を、妻の静御前や多くの家来たちが、ばらばらになっておいかけたそうです。
奧州への旅のとちゅう、静御前はひとリさびしく、長久寺の宿にとまっていました。
奥州まではまだまだとおく、女ひとリ旅はきけんがいっぱいです。
静御前は、とほうにくれていました。
すると、となリの美濃の宿から、聞きなれた声が聞こえてくるではあリませんか。
「 その声は、もしや江田源蔵どのではないてすか 」
「 おお、そのお声はまさしく静御前さま。おなつかしゅうございます 」
ふたりは、おたがいの声が聞こえるほど近い宿にとまっていたので、ふたたび会うことができたのです。
そして、静御前は江田源蔵をともにつれ、奥州への旅をつづけたそうです。
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写真1: 寝物語の里(その1) お伊勢まいりのおじいさんと若者のお話。 ( 江戸時代ならば中仙道か? )
写真2: 寝物語の里(その2) 静御前と家来の江田源蔵のお話。
( 歴史は苦手ではっきりとはわからないが、12世紀前後の話らしく、まだ東山道の時代の話と思われる。 )
2つの話の挿絵を見比べてみると、時代の違いがわかりやすく表現されています。
・ 宿の名前の看板(亀屋と両国屋)のありなし
・ 明かりが裸の油皿に灯芯が、行灯に
・ かけ布団が綿布団と夜着(掛布団の一種、綿入りで着物の形をしていて「かいまきふとん」とも呼ぶ)
( どちらの時代にしても、綿入りの布団が使えたのは、ごく一部の富裕層だけだったようです。)
写真3: さらにもうひとつ 寝物語の里(その3)の資料がありました。
こちらはお話は、2)ですが、静御前が亀屋に、家来の江田源蔵が両国屋に泊まったことになってます。
( 亀屋の白黒写真がそえられています、亀屋と両国屋への愛着の気持ちのあらわれでしょう。 この写真は、いつごろとられたのでしょうか? 明治、大正?、
始めの説明にある、「静御前の京(狂)女ヶ谷」 と 「西行法師の時雨ヶ沢」 …調べても見つかりませんでした。)
<注> 写真3は、小冊子 「 中仙道柏原宿の、明治・大正・昭和を、写真でつづる … ある日 あるとき 写真展 ( 柏原宿歴史館 発行 ) 」 より 転載
○ 追記
・ ネットでしらべていくとまだあって
『 平治の乱の後、源義朝を追って来た常盤御前が
「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所 … 』
などと、さまざまあります。
参考LINK: 旧中仙道 道草ハイク
関ヶ原宿・今須宿・柏原宿・醒井宿 (関ヶ原駅 → 醒ケ井駅) <旧中山道31回目>
http://kota-k.sakura.ne.jp/new_page_94.htm
・ よく言われる「天下分け目の関ヶ原」…
関東から見たときの西の端が関ヶ原ですが、一方関西から見た東のはずれがこの山東町の宿場町柏原で、この寝物語の里の標識のある溝が、関西と関東の境界線にあたり、私がはじめてここにきたときも、駅ひとつ違うだけなのに駅員さんと地元の方たちとの会話は、もろ関西弁のイントネーションで驚きました。
・ もうひとつのお話の「北畠具行と京極氏」の話も、まさにこの境界が大きな舞台としてあるように、この里までは関西圏で、ここから一歩となりの関が原に行ってしまえば、関東方の圏内となってしまう、ぎりぎりのところで最後まで運命とせめぎあった、境界の場所に住んでいるからこそ、気持ちは通じているとゆう物語だと思います。
・ この里の山にはじめて登られる方は、現在は山と里が防獣柵で囲われていて、自然と里の暮らしが、しきられてしまったような印象をお持ちになるかもしれませんが、この柵はお互いに安心して住める環境をまもるための結界となっています。
( 周りの道につながる要所々には、自由に開閉できるゲートが設けられていますので、通った後に必ず閉めていただければ、自由に出入りできます。)
◎ 反省
最後になんとか無理やり山と境界線の話に戻しましたが、なれない昔話について書こうとすると、年代はどうだったかとかだんだん自信がなくなってきて、わが身の知識が薄っぺらなのを痛感します。
( 正しい年代はどうか?とか、中仙道、中山道、仲仙道、正解はどれ?や、東山道の駅が30里(16km)ごとに?え〜?1里って4kmじゃないの?とか、不安になることがいっぱいで面白かったです。)
高校は工業系でしたので、英語、国語、地理、歴史、は苦手でずっと敬遠してきましたが、まさかこの年になって、当時の不勉強を後悔することになるとは想いませんでした。
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