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大雪にでもなれば、柏原まで行って雪かきをしなければならないからだ。
( 昨年もいつもの年とくらべれば雪は少なかったが、それでも冬の間に2度ほど、雪かきをした。)
◎ 両親と私の3人で、この柏原に引越してきたのが、昭和51年の夏の終わり。
( 元は、大垣生まれの大垣育ち、大垣は川と堤防にかこまれた町で、子供のころ住んでいたところも、大垣の中でも低い町内で、台風と水害の思い出も多い。)
◎ 引越しが終わって間もない昭和51年9月始め、大型台風が通過した。
( 風の強さはそこそこだったが、降水量が半端なく、不慣れな土地で不安もあったが、 まわりを山に囲まれた土地柄と、町全体の海抜標高も高いので被害なく過ぎた。 自宅の玄関の前は、道をはさんで向かいは小さな川(天の川)が流れていたが流れに不安はなかった。)
・ 台風が過ぎて次の日、通勤で国鉄柏原駅から(10年後にJR)勤務地の岐阜向けで電車に乗った。 垂井を過ぎたあたりからまわりの景色がそれまでとまったく変わって、田んぼだったところが一面水でおおわれ、鏡のように台風一過の青空を写していた。 大垣、穂積、と、徐々に水かさがまして、墨俣あたりはぶろっく塀の上まで浸かっていた。
( 先週まで住んでいた、大垣の家も床上浸水だったようで、しばらくしてから聞いた近所の方の話では、畳とたんすを全て2階へあげて大騒ぎだったそうだ。 )
◎ そんなことが引越し直後にあって運がよかったと喜んだが、年がかわって52年、初めての冬に大雪にみまわれた。
( 大垣でも、多い年は30センチくらいの積雪は経験があったが、こっちの雪は、いったん積もりだしたらペースが違う、朝おきたときになにもない乾いた道だった玄関先が、ふりだしてから見る見る高さをまして、数時間後のお昼には40cmくらいになっていた。)
・ 一夜明けて次の日の朝には経験したことのない1mの積雪だった、
( 地元の新聞屋さんのオバチャンが腰までの雪をかきわけながら、新聞を届けてくれた。)
( 国鉄は3日間ストップ、その間は当然のことながら勤めも休んだ。)
・ すごかったのが、町にそって通っている国道21号線も、いきなりの降雪に除雪もままならず、上りも下りも渋滞でとまった車やトラックが、身動きも引き返すこともできず、そうかといって、車から離れるわけにもいかず、身動きできないまま夜を迎えたドライバーさんも多かったようだ。
( たまたま渋滞に巻き込まれた、母の勤め先の大垣の会社の職人さんが夜に助けを求めて訪れ、食事と暖をとって、何とか大事なくひとここちつけたようだった、車の燃料や、アイドリングでの暖房にも限りがあって、どうしようもなかったようだった。)
・ 以来毎年多い少ないはあっても、年に数回は、除雪と屋根の雪おろしをやってきた。
( 今は他界した頑固だった父と、毎年口げんかしながら除雪したのが、いい思い出になっている。)
( まだ、我が家は、道をはさんで向かいが、川なので、除雪作業は町の中心部に比べて楽なほうだ、雪国では必須の、スノーダンプ・スパイク付ゴム長・スコップ・等で雪をかいては、川へおとす、捨て場がないお宅では、雪をいったん軽トラックに積み込んで、橋まで捨てにくる分大変だ。)
写真1: スノーダンプとジムニー (2017年1月15日)
写真2: 屋根の雪かき用はしごと、ロングのT字の道具。(2017年2月12日)
写真3: 年別の除雪死者のグラフ (岐阜大学、井奈波良一氏の資料より)
参考文献 : 豪雪による人的被害の動向 ( 岐阜大学 井奈波良一氏 作成資料 )
http://www.jsomt.jp/journal/pdf/062060364.pdf
◎ 年別の豪雪記録では。
・ 38年豪雪 (死者228人)
・ 48年豪雪
・ 52年豪雪 (死者およそ100人)
・ 56年豪雪
・ 平成18年豪雪 (死者152人)
・ 平成23年豪雪 (死者133人)
( 家屋損壊よりも、除雪作業時のスリップ、転落、落雪の事故が多い… 除雪作業も命がけであなどれない。)
( 比べて前年の昭和51年の洪水被害では、損害額は大きかったものの、岐阜県内の死者は10名にも満たない。)
・ 今のハイテクの車が、同じような大雪に閉じ込められたとしたら…
どんな状況になるかは想像もつかないが、いざ大雪になったとき、心の備えは必要だろう。
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