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・ 国史跡 北畠具行の墓(米原市教育委員会)の標識説明(写真1)より転載。
(年号背景等、一部補足あり)
『 北畠具行(1290〜1332)、鎌倉時代後期の公卿で後醍醐天皇の重臣(側近、中納言?)。
・ (1318年に即位した後醍醐天皇は、幕府により1321年院政を停止され、皇位の継承にまで介入が及び、その後…)正中の変(1324年)で倒幕に失敗した後醍醐天皇は、元弘元年(1331年密告で露顕し急遽笠置山で挙兵)再び倒幕を志し、笠置寺(京都府)にこもり幕府軍と戦います(元弘の乱)。
しかし、関東から派遣された大軍の前に敗れ、天皇は隠岐に流され、具行らは京に送られました。
・ 一方、柏原に居館を持つ 近江守護 京極道誉 は、鎌倉幕府の御家人として活躍した有力者で、元弘2年(1332年)具行は道誉に預けられ鎌倉に向けて護送されます。
5月10日から約1ヶ月間、別邸がある清瀧寺(清滝)で具行を慰め、その人格に打たれた道誉は、幕府に対し斬罪の赦免交渉を行いますが、幕命により柏原で斬首されます。
元弘ニ年六月十九日、具行は、ここ柏原の地にてその生涯を閉じました。 』
( 京極氏の名前は、別の標識では、京極高氏(佐々木導誉)と表記されている。)
写真2: 北畠具行の墓
写真3: 京極氏歴代の墓のある(清瀧寺・徳源院)
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wiki:柏原宿 では…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%AE%BF
・ 北畠具行 - 後醍醐天皇に仕え倒幕の議に参画したが発覚しこの地で斬首された。
とあって、味も素っ気もない…
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wiki:北畠具行 を見てみると、物語の詳細から、辞世の歌まで載っていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C
引用
「 消えかかる露の命の果ては見つさても あづまの末ぞゆかしき 」
( 消えかかっている露の如く はかない自分の命の最後はもうわかってしまった。
それにしても… 鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。)
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・ 結局は翌年(1333年)に足利高氏(尊氏?)らが天皇方について、鎌倉幕府は滅亡。
( 西の京から近江の国と、東の鎌倉から美濃の境界にあたる柏原において、
立場の壁を超えて心を通わす男たち… www〜a話デス。)
makobeさん、毎度どうも。
北畠さんの墓は去年初めて見ました。途中、いくつも枝道があって、それを入っていくとその度に墓がある、という不思議な山でした。公卿らしからぬ豪傑だったのでしょうね。
徳源院は去年の台風で土塀が崩れ、痛々しい限りだったので、拝観料としては少し多めに入れてきました。
YAjinomoto さん こんにちは、おかげんはいかがですか。
・ 現在は関市在住ですが、両親が住んでいた柏原がなつかしくて苦手な歴史を調べつつ書いています。
・ YAjinomotoさんがおっしゃるように、山のふもとの里との境には、お墓がいっぱいあって、清滝のお寺から柏原にかけての山腹にも、いっぱいいろいろなお墓があって、僧侶のお墓のように、角のないまあるいお墓から、5角形の将棋の駒のようなものや、鎌倉時代の笠のついた塔のようなものまでいろいろあって面白いですね。
・ 徳源院の塀がこわれた件は知りませんでしたが、写真は数年前のもので、左手のうつってないあたりは、そのころすでに屋根がくずれて、V字型に崩壊して中がみえかかってました。
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