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場のみんなが和むジョークをいえる人はとても人気が高い。しかし笑わそうとしてスベる人はすごく評判を落とす。
過去のジョークには、今は許容されない差別ネタもあった。「仲間内」に含まれない人を笑いものにし、不愉快にしてきた可能性がある。
チャップリンが若い頃から非常に気をつけたのがエスニックネタで、現場の巡業経験が長くて、その場で笑わない人が何人か居るのに気がついたからだという。この気づきが、ナチスやナチスに屈した英米当局にも屈しなかったバランスの素だ。時代によって廃れるジョークを越えて、チャップリンが評価されるのはこのためだ。
LGBTQの存在を本や番組で知るまで、それは冗談のネタだったが、10人中1人は居る可能性を聞いては、自分のそれまでの無神経な会話が空恐ろしくなった。無自覚に、当事者に笑うふりを強制さえしてきたのだ。無知故に笑ってきたのだ。
90歳近い父は、昔から人を笑わせるのが好きで、周りに好かれてもいた。いま、孫娘18歳はジェンダー本を読み込んで、いかにこの社会がオッサン同質的帝国となっているかの問題意識がテーマなのである。「女の子はな、話した後にちょっとニコッとするといいんだよ、わはははは」などという、ちょっと和ませようと言う言葉の中に覗く「ジェンダー役割思想」が気に入らない。青筋を立てて聞いている。明らかに、笑いのツボは時代でズレていく。
日常でも数人が輪になって大声で笑っているとき、その外に居ると恐怖を感じることがある。高い声で発作風に笑うのは特に怖い。笑っている本人も何かにおびえているのかもしれない。「鎌倉殿」で北条義時に殺意スイッチを入れられる相手は、間際にすごく怖い侮辱的笑いを浴びせるシーンがある。お見事な役者ばかり。笑いは一線を越えると攻撃的だ。
楽しく笑うのは良いことなのだが本当に楽しいのだろうか。場の中で、あるいは場の近くで、ちっとも笑わない人が居ることを、あるいは、笑ったふりをしていた人が居ることを考えるようになった。
美しい人を褒めるつもりでも、容姿のことは言わない。「そうでは無い人」が横にいて不愉快かもしれないから。それを感じて、褒めたかった人も嬉しくないだろう。それに容姿というものは褒められても、それほど嬉しくないのではないか。本人の努力ではないし。
場の全員を後ろめたさも無く笑いの渦に巻き込めるようなプロは、本当に尊敬する。そこまででなくとも、笑っていない人に気が付き、笑いを押しつけずに声をかけられる人。
人の集まりは難しい。やっぱり誰も居ない山の中でともに笑える相手だけと静かに笑いたい。
人を下げて笑いにしたら、自分が下がるって風潮になるといいですね。実際、なりはじめてはいると思うんですけど、年を取ってくるとそういう視線や雰囲気を身体の老化と共に感じ取れなくなってきてなかなか変わっていかないとも思います。他人事じゃなく自分もそんなよくない部分があると認識してないとダメなんでしょうね。私も。
こんなことを考えるのはやっぱり社会での山場を越えて下山中の身であるから、これまで無神経だったことに気づき始めたのかも。やはり年をとって老いるのも必要なことです。人間、ノッてるときばかりじゃないもんね。でも間違いないのは、強い人ほど優しいし、怯えてる人ほど容赦がないな。
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