|
|
|
「もっと勉強がしたかった」と書いている中村徳郎は、旧制一高の旅行部あるいは山岳部に在籍していて、穂高東面の往時の山行を撮影した写真集もあり、また北アの霞沢岳三本槍の初登攀をし、ドイツ人登山家の遭難救助したという新聞記事も展示がありました。当時のスキー帽を被った写真などの展示もあり、ウチのOBなら今村さんの世代だなと思いました。戦前の学生山岳部は、旧制高校、旧制高専、大学予科(18、19、20歳)が最も盛んでした。大学(21、22、23歳)は、いまの大学院くらいの感じでしょうか。
東大に進学してすぐに学徒兵になったようで、両親に宛てた最後の手紙の追伸には、「一校の寮の旅行部後輩の山行は、戦時旅行制限で北アなどには行けず、せいぜい塩山起点の奥秩父や大菩薩嶺辺りになるだろうが、もし仲間が実家に寄ったら、メシを喰わせて牛乳でもタップリ飲ませてやって欲しい」と書いてある山岳部魂に泣けました。
甲州市民文化会館は塩山駅から徒歩15分くらいと思います。乾徳山や甲武信岳の帰りにでもお立ち寄り下さい。
ちなみに最近読んだわだつみ関連本、http://bookmeter.com/b/4808309955
も良い本でした。
こんばんわ。
今年、この時期、いろいろ戦争の特番がやっていて、泣けますね。うちの祖父も、シンガポールで「子供たちの靴を買って帰るからな」といって別れたらしいです。終戦後、ずいぶんたってイタコさんにおじいさんを呼んでもらったら、「子供達の靴もって帰る約束まもってあげれなくてごめん」といったらしいです。それ聞いて泣き崩れてたそうです。
死者の最後のことば、強いものですね。少なくともそのときは帰るつもりだったのだから。・・・イタコさんのお見通しは凄いですね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する