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庭の柿の木に登ったりしたあと、散歩に出ると、斜め向かいの矢口さんのばあさん95歳が杖付いて歩いていたので一緒に散歩して、同心町の辻井戸の跡の腰掛に腰をおろして小一時間世間話しました。国防婦人会の頃の話とか。
そのあと日帰り養老院の人が迎えに来たのでお別れして、散歩を続けると、何やら城下町まちかどウオーキングの一団が、マンホールを開けて古井戸を覗き込んでいます。この辺りは松本城の旧城下町の一番北のはずれで、下級武士の住んでいた町区画が今もそのまま。狭い小路なのに井戸のところだけは少し広場みたいになっています。飛び入りで合流して、今も江戸時代から残っているけど常時公開はしていない旧武家屋敷に上がりこみ、続いてさっきばあちゃんと腰かけていた井戸を巡ってから福島将軍生誕地跡を通って田町の公民館までご一緒しました。説明役の郷土史家の方に、常々抱いていた仮説を問うてみたりしてとてもためになりました。毎日小学校で通った道の脇に、知らない井戸跡があったのにはびっくりです。
最近読んだ本で「水と緑と土―伝統を捨てた社会の行方 (中公新書)」というのがありまして、昔は堤防とダムで洪水を抑えるのではなく、堤防はあえて低く作り、遊水地という、普段は家を建てない場所(田を含む)を用意しておいた事を知りました。そういう場所を、明治以降は高い堤防を築いて安全だからと宅地や工場などにして、日本中で再開発してきました。
http://bookmeter.com/b/412190348X
松本城の城下町は城の北側に無人の地域があり、常々不思議に思っていました。ここが大門沢川の遊水地だったのだということがこの日の話で繋がりました。現町名が、城下なのに「田町」であり、明治以降には、更地だったがために、田町小学校や、丸の内病院、市立図書館、のちには旧開智学校の移転先にもなったのだと合点がいきました。明治以降、日本人は川に対する態度を豹変させたのです。
先日は甲府のとある大学の講義に招かれ、江戸時代に家のなかったところは100年に一度の災害には合うかもしれないですよという話をちょうどしたところです。その大学の立地がまさにそういうところで、飯田河原と言って、1521年に武田信虎と駿河の福島という軍勢とが合戦したところでした。合戦するくらいだから荒川の遊水地です。日付もちょうど同じ10月16日で自分でも驚きました。
yoneyamaさん、こんにちわ。
先般の東北関東豪雨の時に、同じようなことを思いました。その時に、ぱっと思いついたのは信玄堤です。確かに昔は土木技術も未熟で、高く、強く作ることはできなかったかもしれませんが、いつまでたっても想定外の豪雨などといっている現代人の愚かさと比べるとどうでしょう。
思えば、日本の歴史は少ない水をいかに分け合うか、時に荒れ狂う水をいかに治めるかが根本にあったような気がします。温故知新じゃありませんが、先人の知恵に謙虚に耳を傾ける。そんな時期にきているんじゃないでしょうか。今更、完成までに1000年かかるスーパー堤防なんて無用の長物です。
先般の水害地帯は町村合併で常総市(常陸と上総から1字ずつ)となっていましたが、古来の名前は水海道。地名を聞けば明らかに鬼怒川の遊水池です。堤防で固めて、名前を変えて、驕りの建設省です。
信玄堤は、完全排水路思想ではなく、水の勢いを削いで逃す、古来の遊水池式の治水法です。平地の半分は遊水池として湿地草原森林にしておけば、鳥も魚も虫も来る、良い都市になると思うなあ。ちょうど人口減少時代になるのだし。
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