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戦国期の城下町は、本丸、二の丸、三の丸と、堀で区切られしかもその入り口には枡形を作って複雑に方向を変える迷路です。一気に敵が直進しない工夫です。1600年前後にできた町はどれも松本、松山、高松、若松、松江、と松のつく地名が多いのも特徴です。城下の通りは今と違い土塀で囲まれ、遠くが見えないのが普通です。そして通りの先には、神社の鳥居や寺の山門があり、その上にちょうど盆地を囲む端正な山の頂が見えるように設計されています。美ヶ原の王ヶ頭、袴腰山、乗鞍岳、と借景を生かし、町を設計した人の心意気が感じられます。これを「山当て」というそうです。
しかし松本平から見た山の主役といえば常念岳ですが、なぜかどの小路の山当てでも常念が見当たらない。著者は全ての通りを歩いて、無いということを証明します。そしてそこまで徹底して無いのは、当然ながら隠していたのだということを発見するのです。著者は、江戸時代の、本丸への登城ルートを忠実に歩いてみて、その秘密をようやく再発見しました。大手門をくぐり、太鼓門をくぐり、二の丸から最後に黒門をくぐろうとした時に初めて、五層の天守閣とその左、内堀の水面の上に、常念岳と連なる山脈が見えるように設計されていたのです。ここまで来られる人は当時、選ばれた人だけ。城下では一切常念岳を隠しておいて、ここで初めて見て感激する。最高のおもてなしです。
この仮説を裏付ける話として、利休が、秀吉を、朝顔で名の知られた茶室に招いた時、満開のはずの朝顔が全て抜き取られていて、茶室の一輪挿しに一本だけとびきりの朝顔がさしてあったという逸話があります。調べてみると、松本城を築城した石川数正は、松本に派遣される前、秀吉のもとで利休と何度か茶の席を同席しているとの記録を調べ、挙げていました。数正が利休の美意識に強い影響を受けていたことが推測できます。
!面白いなあ。
数正といえば、「俺は世話になった家康様をなんで突然裏切ってしまったんだろう・・」と愚痴をこぼすところを、真田信繁が「みんな一生懸命生きているんです。前を見てがんばりましょうよ」と現代風に慰めていましたね、前々回くらいの真田丸で。あ、あれが松本城初代城主の石川数正かよ・・・、と少々がっかりしましたが、悩んでいたんだろうなあと知って身近になりました。
これだけ凝りに凝って作った最高の景観なのに、この風景の中には昭和期には遊園地の観覧車ができたり、高層マンションが建設されていたり(今は取り壊されています)と、今の時代にあまりにひどい扱いを受けてきました。著者は、ここから見える角度の景観だけでも、築城時の再現をしてはどうかという提案をしています。埋めて狭くなった内堀を復元し、明治期以降に埋めてしまった外堀(これはなんと今、長い移転調整努力の末に掘り返して復元しています。)をめぐる土塀と土塁を復元し、その端にあった二つの櫓も復元する。天守を半分隠している本丸南面の松の木をぶっ倒して、本丸の石垣上に土塀を復元する。夢のような話ですが、人口減少する日本の地方都市でこれだけの文化資産が現存するのだから、これはやる価値があると思います。欧州など古い街を訪れて、値打ちを感じるのはやはり、古くから大切にしてきた風景です。著者の推理と提案に唸りました。激しく同意しています。続編も出るとのこと、楽しみです。
松本景観ルネサンス
溝上哲朗
650円
表紙のデザインもかなり素敵です。
http://craft-sha.shop-pro.jp/?pid=95282725
う〜ん、凄いですねぇ。
そんな秘密があるのですね。
街を設計する時に、防御とか機能だけではなく、演出も考慮されていたのですね。
今度、松本に行った時に、そのルートを歩いてみたくなりました。
400年前の知らない人が、一気に身近に感じますね。400年後にまで、名は残らなくてもこうして伝わるような仕事、今どれだけあるんだろうかと思いますね。せめて続いてきたものを400年後に残していくことには関わりたいものですね。
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