私の92歳の母は1929年満州生まれ。敗戦の16歳はハルピンに住んでいた。8月、街の上空をシュトゥルモヴィークやポリカルポフが飛び、ソ連赤軍が攻めてきた。北部や東部辺境の開拓村から夥しい数の女と子どもが泥だらけの姿で何百キロも歩いて逃げてきた。ソ連兵は大嫌い。汚くてなんでも奪い、捕まったら犯される。
父親は行方不明、17歳の兄、14歳と4歳の妹と母親とひっそり隠れ暮らして超えた冬は、小学校の校舎の避難所いっぱいの開拓団難民が餓死病死凍死して、校庭の穴に一緒に埋められた。
翌年になって本土へ帰還の試みが始まり、国共内戦で鉄道寸断の中、無蓋列車や徒歩で延々関東州の葫芦島めざし、引き揚げ船に乗った。船内でチフス、何人も水葬になった。長崎港では検疫のため何日も上陸許可が出なかった。遠く信州の実家に帰っても、次男坊の嫁一家で寄る辺なき身だった。
新田次郎の妻、藤原ていの「流れる星は生きている」は、全く同じ体験を書いた本。
ウクライナの惨状は、まるで同じだ。
難民がどれほど惨めで、どれほど希望がないかを想像している。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する