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奈良井川は、槍ヶ岳や乗鞍岳からの梓川と合流して犀川に。その後東信からの千曲川と合流し新潟に入ると信濃川になる。梓川の右岸側を筑摩郡、左岸側を安曇郡という。松本はじめ筑摩郡は奈良井川水系だ。中ア将棋頭山の少し北の茶臼山が源流で北流、鉢盛山からの鎖川、塩尻峠からの田川、鉢伏山からの牛伏川と薄川、三才山峠からの女鳥羽川などを集める。
▼登山愛好家的視点から地形を俯瞰すると、なぜその場所に町ができ、なぜ水害が繰り返される地形なのか、社会の変容と産業的な変遷など、流域全体の歴史と事情が見える。すべては地形だ。山と川、すなわち水だ。
▼奈良井ダムの竣工が1982年。女鳥羽川と薄川という手頃なサイズの河川の扇状地の扇端で湧き水が豊かなため近世、近代に数万の人口を支え、製糸産業まで栄えた松本だった。近くの塩尻が交通の要衝なのに台地上で豊富な水が無いため近世の都市にならなかったのと対照的だと解釈した。
しかし松本も水洗トイレが普及した1970年代、従来の湧き水だけでは賄えず、遠く奈良井ダムからの上水を引くことになった。旧市内の実家の水洗化は1977年だった。数年前に知ったが父は市水道局で奈良井ダムから松本市に導水する自然流下システムの設計に関わっていたということだった。その後の市町村合併もすべて水洗トイレを賄うための水の確保、これが決め手になった。もう小規模な自治体には現代の大消費生活のインフラは手に負えないのだ。
▼近世に木を刈り尽くしてハゲ山になった鉢伏山西斜面の牛伏川は暴れ川で幕末〜明治期には土石流災害の常習地だった。その合流点の対岸に南松本駅がある。つまり、長らく氾濫原で人の住めない空き地だったから、1902年に鉄道開通の際、貨車、物資集積場を確保できた。戦後の工業団地造成も鎖川との二股。田川とも、薄川とも二股は、現在大型ショッピングモールのあるところで、もとはやはり広大な空き地だった。どこか荒涼感を感じるのはそのせいだと思う。
▼二股は水量が半分だから渡渉点になる、橋もできる、人々の通り道になる。商売になる。でも時々水害になる。技術進歩で災害は減ったが、天災の規模と頻度は増している。山で大雨になり渡渉できない経験があるとわかる。
この本では全流域の水害史とその対策の歴史を俯瞰する。本の装丁が、引くほど立派すぎるのはこれもバブル期だからだろう。しかし内輪向けでもなく、流域住民の被災時の思い出寄稿もあり、各執筆陣も郷土にいれば聞いたことのある地域の各分野の専門家。歴代所長の座談会も案外面白い。おそらく日本の経済成長的にはこの時期がピークでインフラの整備が頂点に達したのだろう。1995年といえばまさに変わり目の年。阪神の震災とオウムテロ、食管法改定で米、酒販売自由化、ゴミ分別始まるなど、戦後社会の曲がり角。私も仕事で世界(おもにチベットなど)を駆け回っておりました。
頒布用か、価格もなくISBNも無い時代で古書店でも見当たらず。たぶんそうたくさん印刷しなかったろうけど、とても楽しんで読んだ。本を作った人たちはたぶんもうほとんど生きていなさそうです。
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