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それに、今の日本人は信仰というものに無縁すぎて、違うジャンルだと思い込んで一線を引いてしまう。カルト信仰の悪印象もあるし、お坊さんにはお葬式でしか会わないから。
でも僧や修験者だって山が好きだったのだ。山は自由な愛好対象だったのだ。信仰は、めしを食ったり、息を吸うのと同じくらい日々の自然なことだったのだ、ということを色々読んだり話したり登ったりして気づいてくると、彼らは信仰のために登ったというより、根っこのところではもちろん沢登りの楽しさ、ルート開拓のウキウキ、岩壁登攀のヒヤヒヤ、薬草植生研究、地質調査、身体練磨の充実感、焚き火の憩い、お経暗証と山中音読の爽快感、イグルー作り万能感(?)などの中毒になっていたのではないか。
日本の山の記録ある初登記録者では、俄然、「円空」が浮上する。槍ヶ岳開山1828の播隆上人よりも100年以上前の17世紀世代で、同じ江戸時代でもまだ戦国の名残で諸国流浪ハードル高めの時代に、故郷美濃国から蝦夷までも山行旅行に出かけ、生涯12万体も彫ったと言われる民芸調で人気ある「円空仏」に「〇〇岳初登」などと山行記録まで書いてあるのである。マジですか。
穂高岳(保多迦嶽)、焼岳(伊応岳)、笠ヶ岳(於御嶽)、乗鞍岳、錫杖岳、双六岳(四五六嶽)と背銘のある十一面観音菩薩像が、双六川の金木戸集落にある。この元禄3年の円空の背銘の「保多迦嶽」が文献上の初出であるとのこと。これもすべて登っている可能性が高い。
以上の話をこのまえイグルーのよる、岐阜百名山の著者、清水克宏さんに教わった。いま熱心に円空の後追い山行をしていて、いずれ著作にするのではないかな。とても研究熱心で、教わることが多いです。
従来、民芸仏愛好家の円空研究は多いのですが、円空を「登山愛好家」としてその足跡を辿って研究している人はあまりいなかったようです。登山愛好家にして思想家にして芸術家にして探検家にして諜報活動家。カオス最末期の17世紀の自由人です。
清水さんの研究サイト↓
https://shiryoushitsu.jugem.jp/?cid=21
弘法大師こと空海が大龍寺に参拝するため通った道と言われており、空海が唐に渡る前後に訪れたということで「再度山」(ふたたびさん)の呼び名もあり、その他にも空海にちなんだ地名が残っています。
円空のことはあまり存じませんが、お話を聞いて(読んで)地元の大師道を丁寧に辿ってみようと思いました。
空海ともなると、伝説伝承が多くて、大体の地域にありますよね。登山愛好家視点から、空海伝承地マップのような感じのヤマレコ「登った山リスト」の一覧がほしいですね。
はじめまして宜しくお願いします
以前、飛騨千光寺に円空仏にあいに行きました
千光寺は立木仁王像、両面宿儺坐像、三十三観音像など、現在64体の円空仏を所蔵していまして円空仏寺宝館で拝観することができます
円空さんを知ったキッカケはギャラリーフェイクという漫画からなんですけれど、後に伊吹山へ行き円空さんとの繋がりが深いことを知りました
旅の人、円空の軌跡は背景に山を感じるとより面白さを感じますね
梅原猛さんの著書も、いくつか拝読しました
この本は知らなかったので読んでみたいと思います
イグルスキーです。64も並んでいるところがあるんですか。飛騨千光寺、ちょっと調べてみみると由来も場所も意味ありそうなところですね。私は北海道での足跡などに縁があり、今年の夏は双六川、鎌倉街道周辺に縁ができそうです。
氏名を間違えてしまうなんて大変な失礼をいたしました
訂正してお詫びを申し上げます
飛騨千光寺、寺庭に宝物館のような場所と寺内に入ると奥の部屋に円空仏が、さりげなく厳かに鎮座していました
駐車場から寺庭までの雰囲気も山の寺の趣き、大木もあり美しかったです
円空さんと親しみを込めて呼ばれていますが関西でもファンがいて美術館で開催されたりもします
あるべきところ、そこにあるのが良いですね
山好きのお坊さんって多いですね。
知人の一人は修行で山に入ってから好きになった、って言ってましたし
そいえば女鳥羽池近くのお寺住職さんも山好きで
番組収録に行った時も「まだ山歩きから戻って来ないんですよ〜」と言われ
しばらく待った事もあったけ、、、。
(仕込み時間は決まっていたので、待った分、ちょっと大変に(笑))
このお寺は播隆上人の槍ヶ岳開山の時のベースキャンプで、ここで小倉のシェルパを紹介してもらったのですよ。
今も毎年播隆追慕登山していて、何年か前一緒に槍ヶ岳まで登りましたよ。
知りませんでした。
ありがとうございます!
普通に測量士は修験者並みですよ。
円空は日光で120日、食べ物も現地調達で眠らずお経、何十kmもの行程のようでした。
私、去年、ふと笠ヶ岳の播隆平が気になって、調べたら「え、開山者円空?播隆じゃないんだ?」とびっくりしました。しかも、私が花巡りついでに湧水汲みに行く場所が円空街道と呼ばれる場所なのです。街道のあちこちに無造作に木彫りの仏像が置かれています。寺社仏閣に安置されたものを合わせたらすごい数ですが、材は現地調達して、天気の悪い停滞日などに彫って、その地に安置してくるというスタイルだったのでしょうか。
ふと、今日、読んでた本で「生活の足しにならない登山は国や文化によって理解されない」的な文面を読んで、ちょっと宗教家と登山家って似てるなと思いました。もちろん、法事などでお布施が発生する場合もありますけど、宗教のための修行をすることって生活の足しにはならない。2つが同じ原動力を持つと考えたら、それは心を豊かにすることなんでしょうね。
生活の足しにならないからこそ値打ちのあるもの、たくさんありますよね。宗教も登山も、生活の足しにしている人も居るけど、足しにならない部分でやっていけることが幸福なのかもしれませんね。暮らしの足しにならない修行って、最高の贅沢ですね。
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