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山を歩くと大きな木に会う。古くからの古道を継承しているような道なら、特に、峠や尾根末端には切られない木と祠がある。ブナ、桂なんかの佇まいが好きだ。長く生き残っているサワラや、イチイ、シラビソなんかもいい。人が、意識して残してきたのだろう。
実家の庭は、かれこれ進学で家を出てから40年で、60年生の巨木が生え揃ってしまった。両親は老いて、切る気もない。二階の屋根を越える背丈の栗と柿とモクレンが、密林のようだ。きょうはその栗と柿を食った。近所迷惑かも知れないが、切りたくはない。時間の経過を、見るたびに思い起こせるからだ。落ち葉が堆積し、柔らかい土になっている。いずれ帰ったら、一番上にツリーハウスを作ろう。
公園の木も、40年もしたら巨木になる。松本城の二の丸南西の隅にはメタセコイアという戦後流行した外来の巨樹が天守の景観を塞いでいる。新しいものが好きな時代(昭和中期)には、二の丸には噴水公園や子供遊園地もあったが、今は幕末の景観に近づけるのが世の流れだ。60年前から二の丸の南東隅、巽櫓のあったところに建っていた市立博物館は、数年前新築移転したのを機に更地になった。横にあった丈の高い松も切られ、このまえ久しぶりに掘りの横を歩いたら、天守が丸見えになっていて新鮮だった。メタセコイア、ヒマラヤスギ、松、杉は、人為で植えた「ある時代の流行り」だから、分が悪い。
大きな木が気になるのはなぜか。
それは、時間を、歴史を、人に思い起こさせるからだ。切られたあとでさえ、それを思い起こす。小さな木を見れば自分が死ぬまでには到底、あんなに大きな木にはならないだろうと思うのに、存外大きくなっていて、自分の時間の経過を考える。大きな木を見ればこの木が小さかったころの時代を数百年前でも必ず想像する。
大きな木は、人生を越えた時間を示す装置なのだ。
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