きょうは視界が遠くまで澄んでいた。甲府に来てから夏はほとんどこうは行かず、町からの山岳展望はあまり利かなかった。南アルプスや八ヶ岳など登った山はすべて一目で分かるが、その前山、御坂山地の青い山や、身延方面の逆光の山はこれまで名前がよく分からなかった。甲府城の天守台に登ると四方の見える山案内板があって、ようやく分かった。案内板を記憶しようと見ていると、ボランティアの観光ガイドのおじさんが来て、歴史や山名や、背景や旧地名など、住んで3ヶ月、合点の行かなかった事にたいてい答えてくれて有り難かった。おじさんは歴代殿様の家系図や元服した寺まで頭に入っていて凄かった。
天守からは御勅使川の谷の奥に農鳥岳、富士川の谷の奥に身延山、山嶺の奥に笊ヶ岳、御坂の後ろに毛無山の山彙なども見えた。
新しい町で何ヶ月か住んで、見る山を憶えて、それから自分のルートで登って見たい、という心が芽生える。遠い町の、名前しか知らない百名山はとりあえずもうあまり登りたいと思わない。
朝は盆地西部の釜無川の方まで行ってみたら、いつもは前山に隠れて見えない金峰山が見えた。五丈岩がとんがっていたのですぐそれと分かった。
甲府城、石垣だけが残っていて、どんな城閣が乗っていたのか、いまはもう誰にも分からないのが不思議。たった150年前なのに。
本当に空気が澄んで山が見えるようになって来ましたね。
夏の間ほとんど見えなかった鳳凰三山もこのところ顔を出していてうれしいです。
ところで「甲府城、石垣だけが残っていて、どんな城閣が乗っていたのか、いまはもう誰にも分からない。」
そうなんですね。yoneyama様の地元、松本城とは雲泥の差。
山梨は戦国時代はもちろん武田氏の領地だったわけですが武田氏の館跡はいまは武田神社になっている「躑躅ヶ崎」という場所。甲府城は江戸時代になってから造られたのでしょう。
しかし、江戸時代、山梨には殿様がいたのではなく幕府の「直轄地」だった。したがって城があっても主不在だったのではないでしょうか?
そうすると立派な天守閣などは不要で、ちょっとした居宅みたいなのがあればいいだけで。
そんなわけでもともと「甲府城」というほどの城はなかったんじゃないのか、と思うのですが、地元民にしてはお粗末な知識で失礼いたします。
また機会があれば調べてご報告したいです。
甲府城、作ったのは戦国末期で豊臣が途中まで、後半は徳川が作った合作だそうで、石垣はものすごく立派。初めのころの設計は十分、合戦仕様だったと思います。
当初は江戸城だって天守閣があったそうだし、弘前城の江戸初期にあったけど落雷で燃え落ちたという幻の天守も、どんな格好だったのだろうなあ。かなわないけど見てみたいですね。
16世紀の松本城が焼けず残っているのは全く奇跡です。
山彙
という語彙には恥ずかしながら初めてです。
>Yahoo!辞書 大辞泉 (国語辞書) さん‐い【山彙】 山系や山脈をなすことなく、孤立している山の集まり。山群。
なんしゅさんこんにちは
戦前の山行記録などを読んでいるとよく見る言葉でした。一本スジの山脈になっていない山塊などのようです。
山の文章ばかり書いていると語彙が貧相になりがちですが、少し前の人の文章は豊かな言葉がたくさんあって、「これはイタダキ」というものがたくさんありました。
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