新穂高温泉から双六沼、鷲羽岳、槍ケ岳
- GPS
- 128:00
- 距離
- 48.9km
- 登り
- 3,925m
- 下り
- 3,883m
天候 | 毎日晴天 |
---|---|
アクセス | |
コース状況/ 危険箇所等 |
北アルプスに家族で登り始めてから十数年、84年の剣岳をのぞいて、夏は毎年、天候には恵まれなかった。4〜5日間の縦走で、雨具を脱げたのはほんの数時間、という山行もあった。今度の日程に、丸一日の予備日をとったのも、そんな体験から。けれども、この夏の北アルプスは晴天が続き、山脈のすべての山々を見渡せるような大展望が、私たちを待っていた。 http://trace.kinokoyama.net/nalps/wasiba-yari.96.8.htm |
予約できる山小屋 |
槍平小屋
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写真
感想
8月2日 夕方5時40分、東京・日野市で勤務を終えた遥子を車に乗せ、八王子インターから中央道に上がった。途中、夕食をとり、松本インターを8時35分に下りた。ここからは、走りなれた上高地への道をたどる。沢渡(さわんど)をすぎ、釜トンネルの手前から左へ折れれば、真っ暗な安房(あぼう)峠への急登に変わる。峠を越えて、岐阜県側へ。途中、キツネがヘッドライトに浮かび上がった。午後10時25分、ほぼ予定通りの所要時間で、新穂高温泉のバス・ターミナルに着いた。
登山者用の村営無料駐車場が、400メートルほど戻ったところにあり、ここに車を止めてテントを張り、シュラフにもぐった。夜半には、数台の登山者の車が到着し、それぞれ車内やテントで仮眠をとっていた。
ここまでは予定通りだったが、テントとシュラフを車から出すときに、たいへんなことに気がついた。荷作りには不可欠の背負子を忘れてきたのだ。遥子や子どもたちの荷はそうは増やせないし、どうやって自分の50リットルくらいのザックだけでパッキングできだろう。すぐ脇を流れる蒲田川の急流の水音を聞きながら、あれこれ考えて何度も寝返りをうった。
8月3日 車や登山者の出発の音で目を覚ます。外はすでに明るかった。
背負子なしの荷作りをどうするか、気持ちは重いが、とにかく、まずは腹ごしらえ。そして、荷物を再度、きりつめなおし、そして詰めてみることだ。幸い、狭い谷間の空は青い。テントをたたんで、5時半から鮭と卵入りのおじや(凍結乾燥した軽量食品で、今回、軽さを見込まれて初登場)の朝食をとる。担ぎ上げて今日の昼食に割るはずだったメロンの大玉も、1人4分の1ずつの大きな切り身にして食べてしまった。
いろいろ思案したあげく、アタックザックの上にうまく荷物を固定することで、積載量をふやすことを思いついた。ザックの袋の両脇に、下山時のステッキに使う予定のスキー・ストック(3段伸縮式)を差し込み、これを支えにテントなどの荷物を高く積み上げた。あとの荷物も、なんとか全員のザックに収まった。昨年とちがって、岳彦(中学2年)のザックのマチ幅を広げて65リットルに拡張したこと、峻二(小学5年)がサブザックから50リットルの中型ザックに昇進し、シュラフや着替えをしっかり背負ってくれたことが効いたようだった。とくに岳彦は、食料箱を二つと水5リットル分の水筒(4本)を背負い、20キロを超す重量を背負っている。
バス・ターミナルまで上がって身づくろいや水の補給をおこない、6時40分に出発。
今日は新穂高温泉(標高1100メートル)から、弓折岳の北のピーク(2622メートル)をへて双六沼(2560メートル)まで、標高差1500メートル余りの登高になる。双六沼の幕営場への到着がどんなに遅れても、今日、この行程を登りきってベース・キャンプを設置できれば、明日からの行動にかなり余裕ができる。5日分の食糧はずっしりこたえるが、どんなに時間がかかっても荷物をかつぎ上げることだ。
重荷の私たちにとってありがたかったのは、最初の2時間近くの林道歩きのほとんどが、蒲田川左股に沿って、沢音を聞きながら登る、木漏れ日の中の道だったこと。その木々も、笠新道の分岐(標高1350メートル)あたりからは太い大木が混じるブナの森に変わり、涼風が頬に心地よい。道端には、ところどころコゴミが群生している。コゴミは、駐車場のそばにもあったが、飛騨の人たちは、このうまい山菜をあまり食べないのだろうか。沢筋には雪崩のデブリの跡の残雪がまだ残り、この冬の降雪の多さを感じさせてくれた。
ワサビ平小屋をすぎると(午前8時40分)、しばらくで、道は林道と分かれ、左股川の河原の踏み跡をたどる登山道となる。小池新道の始まりで、すぐに左股川を離れ、灌木帯の急登が始まる。初めての荷物の量に、峻二が弱音を吐き出した。遥子も、初日はいつものことだが、ペースが遅い。岳彦だけが、重荷をまるで気にしない風で、ぐんぐん先へ登ってしまう。いったん、全員がそろって休み、また、登高を開始。西鎌尾根が見え始め、せりあがったその先には、小槍を従えた槍ケ岳のピークも見え始めた。午前10時少しすぎ、水音がうれしい秩父沢の渡渉点(1720メートル)に着いた。
秩父沢は、抜戸岳(2813メートル)の東面を流れ下る沢で、渡渉点の上部は、稜線まで急角度の雪渓がせり上がっている。登山道がこれから向かう弓折岳の方面も、残雪が谷を埋め、岩の暗い灰色、灌木の緑と、鮮やかなコンストラストを描いている。ガスは舞っているけれど、まず申し分のない快晴だ。
秩父沢を架設の橋で渡り、さらに急になった道に喘いで、シシウドヶ原(2090メートル)の雪渓に出た(12時07分)。雪が融けたばかりの傾斜地に、名前の通り、シシウドの若芽がいっせいに顔を出している。この芽が伸びてシシウドの原と化すまでには、まだ2〜3週間はかかりそうだ。
ここから鏡平へは、山腹をいったんまいて、小さな沢筋へと移り、その沢筋にそって登ることになる。突然、目の前が開け、湿地を埋めた雪田の上に出た。周囲の斜面は芽吹いたばかりのコバイケイソウやシダの仲間で、やわらかい若緑の色彩でおおわれている。その中に、比較的大きな葉を八方にひろげ、白ないし淡い桃色の7〜8センチの花弁をつけている花が目についた。キヌガサソウだった。清潔感がありながら、けっこう派手でもあるこの花は、雪田の周囲にいくつもの群落をつくっていた。
先行した岳彦が、小屋が見えると、ハイ松の向こうで叫んでいる。小さな池が散在する小広いテラスのような場所に、鏡平小屋(標高2300メートル)が建っていた。午後1時32分。名物のかき氷は、氷が切れて、できないという。ラーメンをたのみ、大休止とする。水は1リットル100円で売っているが、この先に水場があるので、補給はそこまでがまんすることにした。
鏡平からは、稜線上の弓折岳の肩まで、登りはいっそう傾斜を増す。峻二は「いつまでも、下の鏡平小屋が近くに見える」といって、行程がはかどらないのにぐちをいう。実際、ペースはがくんと遅くなった。新穂高温泉からは10くらいのパーティーがいっしょに登ってきたが、ほとんどは小屋泊まりの軽装で、先へ行ってしまった。それでも、弓折岳の肩をへて稜線歩きになると、きびしい登りからはもう解放され、雪田やお花畑が連続するやさしいコースとなる。槍は見えないが、穂高連峰は切り立った岩壁を見せて、屹立している。
二つ、三つと稜線のピークを越すと、前方に鷲羽岳が現れ、その前景の鞍部に双六小屋と幕営地が見えてきた。双六岳は、風船を膨らませたような、ボリュームのある山体で、大きな雪田が張りついている。その山すそに、銀色に光る双六池があり、テントが30張りほど立てられている。最後のハイ松の中の下り。岳彦人は先行して、いい天場をさがしているはずだ。
双六沼に午後4時30分すぎに到着。ひどく疲れたが、とにかくこれで、こんどの山行のメドはたった。幕営地は鞍部の下になっていて、南西の双六谷方面からの風がけっこう強く、寒い。遥子が吐き気を訴えているので、テントを張って、すぐにシュラフに寝かせた。小屋で缶ビールを手に入れてテントに戻り、体の力を抜く。一口めが、ほんとうにうまかった。
夕食は、若鶏肉の照り焼き(真空パック)と、たまごスープ、山菜おこわ(アルファ米)。子どもたちは元気に食べたけれど、遥子は気分がよくなくて、ほとんど食べられなかった。あとで、コーヒーとクッキーをおなかに入れてもらった。
夜半は、ときおり、雨がテントをたたいた。
8月4日 隣りのテントが暗いうちに撤収して出発していったあとも、うちはそのままひと眠りした。5時半に起きて、朝食(パン、野菜サラダ、チーズ、コーンスープ)をとる。今日は、往復12時間で水晶岳をピストンする予定だが、峻二がいま一つ元気がなく、遥子は昨日の不調がまだ尾を引いている。とにかく行けるところまでいってみよう。荷物は行動食と雨具だけ。岳彦と二つのザックに分けて、遥子と峻二は空身で出発する。6時42分。
往路は、双六岳と三俣蓮華岳の山腹をトラバースしてすすむ。去年、黒部五郎岳をへて縦走してきたとき、三俣蓮華岳の花と残雪の多さに驚いたが、このトラバース道は東面だけに、やはり雪も沢水も多く、それだけにお花畑は見事だ。ハクサンフウロ、チングルマ、ミヤマキンポウゲ、ハクサンイチゲ、クルマユリ、ヨツバシオガマなどなど、色とりどりの群落が連続する。トラバース道が三俣蓮華岳の頂上近くまでのぼりつめるところでは、丸山(2854メートル)の東面が全面に渡って雪田におおわれ、すばらしい雪の大斜面を形作っていた。岳彦も峻二も元気一杯で先行する。しかし、遥子は吐き気が続いて、何度も立ち止まる。疲労だけでなく、高度障害の一種のようだ。
「さあ、三俣山荘で、また、あのうまい、ラーメンを食べよう」。声をかけると、子どもたちは大喜びで走り出す。小屋から先はどうしようか。遥子を置いて、男3人だけで水晶岳を往復することも考えたが、小屋の食堂でその話をきりだすと、峻二は「お母さんと残る。ぼくは行かない」という。結局、小屋から鷲羽岳をピストンし、帰りに、去年も山頂を踏んでいない三俣蓮華岳などを縦走する尾根道をたどることに決した。水晶岳は、去年は降雨の予定変更で登れず、今年もまたまた、登頂できないことになったが、三度、来くることにしよう。
小屋で50分休んで、午前10時ちょうどに4人で出発。いつのまにかガスがどんどん風で飛ばされて、すばらしい青空が広がり始めた。400メートル近い高度差があるだけに、鷲羽岳(2924メートル)は目の前をたちふさぐような大きさと高さでそびえ立っている。遥子もやや調子をとりもどし、ゆっくりと、ほとんど休まずに登って、11時36分に山頂に立った。
北にはワリモ岳(2888メートル)の上におおいかぶさるように、水晶岳(2986メートル)が頭一つ抜け出していた。ここまで来ても、まだ遠い山、2年続けての挑戦でも、登れなかった山だ。 南には、残雪が一番、大きく見える祖父岳(2825メートル)が目の下にあり、雲ノ平へと続くテラスが連なっている。そして、黒部の源流を隔てて、巨大なカールが口を開けた個性的な山容の黒部五郎岳(2840メートル)。三俣蓮華岳、双六岳も雪が多い。
南東にはガスが拭き払われて穂高連峰から槍ケ岳(3180メートル)、そして北鎌尾根のギザギザの稜線が空に切り込んでいる。東には常念岳(2857メートル)、大天井岳(2922メートル)が意外なほどに高く見え、その稜線は燕岳(2763メートル)と餓鬼岳とに連なっていた。
「お父さん、ここは、本当に山の中なんだね」と子どもたちがいう。「いままで北アルプスに登ったなかで、一番の展望だね」と遥子と言葉をかわした。
絶好の展望台=鷲羽岳を後にして、こんどは三俣蓮華岳に登り返すと、ときどきガス状の雲が走り抜ける程度で、上空の雲はもうまったく見当たらない、これ以上はないという快晴になってきた。三俣蓮華岳の山頂。なんといっても間近に見る黒部五郎岳が迫力がある。昨夏にたどったカールの中の踏み跡も、印象的だった巨岩も、はっきり指呼できる。槍ケ岳は、やや左に軸を傾けた三角錐型だ。
双六岳へ向かう尾根ルートをたどって、丸山を越え、ここからは「中道」と呼ばれる下降ルートをとった。ここは人もめっきり少なくて、花はすばらしく多い。立ち止まっては、地面にかがみこんでカメラを構えて、私が一番、どんじりになった。3人に追いついて見ると、遥子は「黒ユリも撮れたでしょう?」という。「えっ、それもあったの。どこに?」「下降し始めてすぐのところ」「うーん、おしいことをした」。
それでも、帰り道の収穫の一つに、ちょっとした発見があった。去年、北ノ俣岳から神岡新道へ下降する途中の湿原で、「スゲ」の仲間のような赤い植物で、図鑑に出ていない不思議なものを見つけたが、その正体がわかったこと。わかってみたら珍しい植物でもなんでもなかった。イワカガミとコイワカガミの花が散ると、ガクの部分がめしべをとりまいて赤い実を形作る。北ノ俣で見つけたのは、その実で、三俣・双六の「中道」では時期がちょうど合ったのか、その「赤い実」や移行期で花びらが散り始めたものなどを、幾つも目にすることができた。
今回目にしたもののうち、コバイケイソウは、この一帯ではどこのものも花を咲かせているものはなかった。去年は稜線のどこでも白い花が咲き競っていたのに。コバイケイソウは決まった周期でしか花をつけないのだろうか?
双六沼には、午後4時40分着。夕食は、若鶏味噌漬け肉(真空パック)の野菜いため、スープ、野菜サラダ、ごはん(アルファ米)。遥子は、また吐き気におそわれてシュラフに入って、食べられなかった。
夕方から、一転して、断続的な雨となる。明日は、ほんとうは槍ケ岳へ行きたいが、遥子は体調が悪く停滞するか下山したいと言い出す。岳彦と二人で槍をピストンすることも考えた。
8月5日 明け方も雨が断続的に降り続く。遥子にスープをつくってやり、相談するが、天候からいって下山の線が強くなる。とりあえず、もうひと眠り。 5時すぎに目を覚ますと、雨が止んでいた。テントから顔を出したら、ガスが切れると、上空は青空が広がっているのがわかる。4人で相談し、遥子の体調がもどりつつあることも確認して、槍ケ岳へ、西鎌尾根の縦走をおこなうことに決める。
おじやとスープの朝食を急いでとり、6時50分、出発。今日は終始、水が得られないコースなので、岳彦人は5リットル分の水も背負った。私の高山病対策で濡れたテントも岳彦にまわったので、荷物は初日よりも重いかもしれない。
最初は、樅沢岳(2755メートル)へのジグザグの急登。天気はどんどん回復して、笠ヶ岳方面も、鷲羽岳方面も、稜線はくっきりと見渡せる。ここからは、ピークを一つ越すごとに、槍ケ岳と北鎌尾根がぐんぐんと近づいてくる。深い谷からせり上がる岩稜も、一つ一つを目でたどれるほどに、槍ケ岳の姿は精緻さを極めてくる。大喰岳から南岳、大キレットから北穂高岳への荒々しい山肌も間近に見渡せる。稜線近くには南岳の小屋も見える。今日は、できれば、あそこまでいって幕営したい。
硫黄乗越の雪田の休み場をすぎ(8時23分)、千丈沢(左手)と水鉛谷(右手)のやせ尾根にかかると、3ヵ所の鎖場がでてくる。峻二を補助ロープで確保して慎重に通過。この先には鮮やかな赤色のタカネナデシコやウスユキソウの群落が点在していて、心が和んだ。
千丈沢乗越(2734メートル)に11時40分着。
槍ケ岳は、もう頭上にのしかかるような岩の固まりと化し、遠景で眺めた優美さはない。標高差450メートル。ガレ場を電光形にせり上がる猛烈な急登が始まった。一歩ごとに大きく一回息を吐き、吸って、足をすすめる。今度の山行では、「持病」の高山病(一過性の高度障害)を考えて、きつい登高のときにはいつも、この呼吸法を続けてきた。また、1ヵ月前からは階段を毎朝30〜40分間昇降運動したり、朝、ランニングするなど、体にある程度の負荷をかけるトレーニングも行ってきた。丹沢山から蛭ヶ岳への縦走の機会にも、このトレーニングの期間に恵まれた(7月29日)。それでも、3000メートルラインの突破はこれまでの体験からいって、苦痛ぬきにはむずかしそうだ。途中、荷物を下ろして休憩をとるが、空気が薄く感じ始めたのは悪い予兆だ。
午後1時49分、槍の肩(3060メートル)にようやく到着。頭痛はいつもほどではないが、軽い吐き気とひどい倦怠感がして、体を横にしたくて立っていられない。先行した岳彦が槍岳山荘に手続きをして天場を手配してくれていたので、その場所(サイト番号A)をさがす。このとき、すぐに休めばよかったのに、場所がわからずに動き回ったため、体がまいってしまった。岩場に指定のテント・サイトを見つけて荷物を下ろすと、そのままそこに横にならせてもらった。
「まったく、うちはうまくいっているね。私が元気になると、こんどはお父さんがこれだから」と遥子。岳彦と峻二は、ザックからテントを出して、設営を始めたようだ。「ペグが刺さらない」とか「石を使って止めろ」とか声がかかる。遥子が「じゃ、中に入って、横になって」と声をかけてくれたので、テントに入れてもらい、目をつぶった。気分は悪いにはちがいないが、ひどいときはもっとひどかった。去年の黒部五郎岳のときは2800メートルで症状が出たのだから、この程度ですんでいるのはトレーニングのたまものだ。それに、高山病は一過性の持病(体質)だとわかれば、最初に急襲されたときのような恐怖感にはおそわれない。
2時間眠って、午後4時前、快調な気分で目を覚ました。もう大丈夫。南岳への縦走は時間的にもできなくなったが、とにかく槍に登ろう。遥子の話だと、槍の最後のツメを怖がっていた峻二も、登る気になっているという。ザックに水を用意し、槍岳山荘の前へ出た。ここで、公衆電話で明日の宿の予約を入れているうちに、遥子、岳彦、峻二の目の前で、大変なことが起こった。 山頂のすぐ下の、上から2番目のはしごから、人が落ちたという。頂上からの落石が当たってはしごから落下し、体が1回転半して途中の岩の斜面に止まったという。ちょうどいあわせた岐阜県警の山岳救助隊員らが、ザイルやユマールをもって上がる。山頂は登山が一時中止になり、大勢の登山者が作業を見守る。収容されたのは40代くらいの女性で、後頭部に大きなけがをしているようだった。
山頂に登れるようになったが、とりつく人はほとんどいない。みんなで行こう、というと峻二は「ぼくはいやだ。登らない」といい、遥子も「峻二が残るなら、私はいないとだめ」という。岳彦と二人で登ることにしたが、登りは13分、下りは8分で往復できた。
ヘリが肩に舞い降りて、応急処置を受けた負傷者を搬送して行った。
夕食はマーボナスと山菜おこわ、スープ、野菜サラダ。
その夜は、入山後、初めて雨も降らず、大きく、明るく輝くたくさんの星々が空を埋めつくした。天の川がミルク色の帯をたなびかせながら、星の空間を大きく二つに切り分ける。遥子と二人で歓声をあげて、にぎやかな星空に見とれた。明日も好天だろうから、4人で登るよう、もう一度、みんなで話しあってみよう。
8月6日 暗いうちから、テントのある岩場にも小屋から人が押し寄せた。御来光の瞬間には、槍の肩にたたずむ登山者がいっせいに歓声をあげ、一筋の光がテントを明るく照らした。通気口からのぞくと、槍ケ岳は晴天の薄明のなかに暗い岩壁を堂々と押し立てている。
みんなを起こすと、峻二も「登る」という。温かいスープとクッキーで腹ごしらえをして、午前5時36分、出発。岩場にとりつく前に、念のため、峻二を補助ロープでしっかりアンザイレンした。
登りは、途中までは順調にすすめたが、頂上の下の2段のはしごが「一方通行」になっていないため、頂上の登山者が30人ほど降りきるまで、20分ほど待機させられた。再度、登りを開始して、6時15分すぎ、槍ケ岳の山頂に立つ。遠く薬師岳、立山、剣岳の八ツ峰の尾根が確認できた。
東には雲海に浮かぶ富士山と、その手前に甲斐駒ヶ岳から北岳、間ノ岳が見えた。南アルプスの稜線は、塩見岳、荒川・赤石連峰までたどることができた。槍ケ岳から南に連なる稜線では、北穂高岳と滝谷のドーム、そして一段高く、奥穂高岳が見えるが、前穂高岳から北尾根が落ち込む様がもっとも荒々しく目をひく。そして、西南にぽっかり浮かぶようにそびえる笠ヶ岳は、山頂のやさしい陣傘スタイルと手前にたちはだかる抜戸岳の険しい山容の対比がおもしろい。それらの山々をカメラに収め、記念写真を写して、下降を開始。こんどは空いていたので、6時46分に肩に降りたった。
あらためてホットケーキの朝食をすませ、テントを撤収し、下山にかかった(8時40分)。
飛騨乗越(3005メートル)からは、飛騨沢源頭のガレ場をジグザグの踏み跡をたどってぐんぐん下る。途中、2100メートル付近で大喰岳側から流れる小沢(沢形が不明瞭なほど小さい)に最初の水場があり、ここで水分を補給(夕べの槍ケ岳では1リットル200円の水を7リットル買った)。槍平小屋に11時30分に着き、昼食をとった。
標高差では1000メートルも下りたが、新穂高まではここからが長い。途中、滝谷の凄惨な滝の落ち口と雪渓、岩壁を見上げたりしながら、ぐんぐん飛ばして、白出川の涸沢を渡って林道に上がった(午後2時12分)。穂高平小屋(標高1240メートル)まで下ると、温泉街は近い。ここにも、大きな雪崩の跡があり、さしわたし十数メートルもある巨大な雪の固まりが泥まみれになって残っていた。4人とも足の裏が痛いという。あんまり痛いから、登山靴を破裂させそうなほど、足が腫れている感じさえする。蒲田川右股川の水と岩の色があまりによくて、釣りのいいポイントが連続しているのを眺めたりしながら、気をまぎらす。
午後3時45分、新穂高のロープウェー駅まで下りついた。私たちは、登山靴を脱げるのがうれしくて、膝や足首も痛がっていた峻二は汗と涙の顔を拭いて、開放感を味わった。岳彦はまだこれから登れるようなほど、平然としている。ごほうびは、茶店の前の水槽で、よく冷えていたスイカ。4つに割ってもらってかぶりついた。あとは予約していた平湯の宿へ直行だ。「お父さん、露天風呂もあるの」「当然だよ。いまは温泉が一番のごちそうさ」。宿では、屋上の野天風呂に星を眺めながら浸かったりして、一晩で5回も湯に入り、体をあたため、ほぐした。
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