現在ネットで「檜峰神社」を検索すると、ここの祠のことよりも笛吹市御坂町にある神社が多くヒットする。
山岳信仰の神社には山頂に山宮(奥宮)があり、里に里宮があるという図式は多いが、そういう場合里宮は登拝道の入口付近になるのが習わしだろう。ところが御坂の檜峰神社は登拝口どころじゃない。ほとんど無関係と思われるところに建っている。これじゃとても里宮だとは思えないのだった。
しかし、神社庁のHPでこの神社の由緒をみると、やはり権現岳のものと同一のようだ。
そこで、あれこれ思考を巡らせているうちに、とんでもない推論が頭に浮かんできた。
権現岳の檜峰神社が時の朝廷から従五位下を授かったのは平安時代の「貞観10年(868年)」なのだそうだ。
「貞観(じょうがん)」という年号、どこかでお目に掛かったような・・・とひっかかる。
そう、「富士山の貞観の大噴火」というのだった。
さっそく調べて見ると「貞観の大噴火」は「貞観6年〜8年」に掛けて発生したと。この大噴火で流出した溶岩が現在の青木ヶ原一帯になったんだそうな。
すると、権現の檜峰神社は富士山大噴火が一段落した直後、2年後に設けられたのだ。
このタイミングは偶然じゃないだろう。
前回日記でも引用した「日本三代実録」によれば富士山噴火の折には、朝廷は甲斐国司に対して浅間神社の神を奉じて鎮謝するよう命じたのだそうだ。この時代、自然災害を鎮めるには神頼みしかないね。
そういう時代にこのタイミングで八ヶ岳に神社が建立されたのは、やはり二度とそのような大噴火が起こらないよう、富士を鎮めるのが目的だったんじゃなかろうか。
考えてみると「檜峰神社」という名があやしい。権現岳が「檜峰」と呼ばれていた形跡はないという説もあった。
これ、「火の峰」、噴火した富士山のことじゃないか。
「火峰」がいつの間にか「檜峰」になってしまうようなことはありがちなことだ。
「八ヶ岳伝説」というのがある。
昔は富士山よりも八ヶ岳(しかも権現岳らしい)の方が高かった。しかし背比べして負けた富士の女神は大いに悔しがって八ヶ岳の頭をめった打ち(^^)。八ヶ岳はボコボコになってしまったんだとか。
http://www.fujigoko.tv/furusatocal/mukashi/act01.html
この伝説(民話?)が古くからのものであれば、当時の朝廷?が、お怒りになった富士山を鎮めるためにかつて富士山以上の山だった権現様に登場願ったとしても不思議ではないだろう。
檜峰神社に祀られているという「岩長姫(磐長姫;いわながひめ)」はなんと富士山の女神「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の姉さんだそうだ。姉に乱暴者の妹を諭すように頼んだとも考えられる。
そして、明治期になって神社の整備・再編などが行われた折りに、流失などで里宮を持たなかった檜峰神社の里宮をどこかに置こうとした時に「そもそもこの神社は富士山を鎮めるもの。」と知られていたのでわざわざ富士に近い御坂の地に置いたのではないか・・・。
これならいろんなことがみんな説明付く。めでたしめでたし。
いかがだろうか。
朝、考えてもう日記になりましたか
早いですね、この推論は読んでいて正しいのではないかと思えてきます。痛快。
やはり、檜峰神社の名の由来が権現も御坂もポイントになりそうですね。
nori3さんから頂いたコメントにレスを書きながら、すでにあれこれ変だなあ、とスッキリしませんでした。
御坂の檜峰神社の創建が「天正」という時代だと知り、それが武田家の滅亡年代だともわかった。
そもそも日本史には疎いので和暦では時代がわからないなあ、と痛感したのでした。
そう考えると「貞観」て西暦で平安時代とわかったけど、どんな時代だったんだろう、あれ、貞観て聞いたことあるなあ・・・、と考えが進んだのでした。
そして調べて見ると富士山大噴火とピッタリ。これは!と思った瞬間に「檜峰→火峰」も浮かんだのです。
そう考えれば、一見無関係に見える御坂の山も意味が見えてきた。これは嬉しかったですね。
機会があればぜひ地元の古老など言い伝えを知っているような方に話を聞いてみたいものです。
早いですね(笑
わたしは、いま胎内くぐりの件で、仏教における扱いを調べていたところです
権現小屋からのくぐりの石の存在も確認しておきたいですね
なんか・・知らなかったとはいえ、由緒あるお山に関わったようですね(^^;
でわでわ
コメントありがとうございます。
私やtotoroさんの日記などからいろんな方がまた調べをして下さる。うれしいことです。
実は山梨の人間にとって「胎内くぐり」は慣れ親しんでいる言葉です。
それは富士山の溶岩樹型。富士山から流れ出た溶岩が大木を押し倒したあと冷え固まる。その後大木は燃え尽きたり腐敗したりでなくなってしまい、あとには洞窟のような「溶岩樹型」が残ります。
こういう洞窟のようなのが富士吉田周辺にはいっぱいあります。それらは「胎内めぐり」などと呼ばれて、観光名所にさえなっている状況。
http://www.mfi.or.jp/sizen/shizen.html
で、江戸時代でも富士講でやってきた富士登山者はまずこれらの胎内巡りをするのが富士登拝の順序だったのだそうです。
こういう洞窟巡りも、ただの「アトラクション」ではなく当然登拝の一環として仏教的な意味があったはずと思います。その辺、詳しいuedaさんのご研究を待つ事としましょう。ぜひよろしくお願いいたします。
まさに、uedaさんが八ヶ岳の権現岳に関わるようになったこと、何かの縁としか思えません。
いまちょうど「山伏ノート」という山伏さんの書いた軽い感じの入門書を読んでいます。口調は簡単ですが、深淵な内容です。修験道では山ごもりは一度山で死に、参道(産道)を通って生まれ変わることを意味するそうで。死と再生なんだそうです。これは七面山のお坊さんもおっしゃっていました。
ところでトトロさんが言及していた
「八ヶ岳、もう1つの魅力、祈りの峰への道と石神仏」
以下で見つかりました。お電話すると振り込み用紙とともに送ってくださいました。
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=31443
コメントありがとうございます。
「修験道では山ごもりは一度山で死に、参道(産道)を通って生まれ変わることを意味する。」
なるほど、です。
してみると「胎内くぐり」はこの行為を象徴している、と考えて良さそうですね。
これは八ヶ岳に限らず、富士山の周辺での溶岩樹型を「胎内樹型」と呼んでいることも同じ発想なのでしょうか。
参考図書の情報もありがとうございます。さっそく入手したいと思います。
pasocomさん、これはまた、切れ味鋭い推測ですね。
でも、当たっているように思えます。
胎内くぐりは、山梨の十八番だったんだ。たしかに、権現エリアは甲斐の国の影響を色濃く感じます。
北村氏の本やWebで探してみると、こんな文があります。
”貞観(じようがん)10年(868)9月17日、甲斐檜峰の神は従五位下を授かった、と『日本三代実録』にあり、権現岳は蓼科山とともに聖なる山として国家的に認められていたといえよう。”
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=452
より。
従五位下から平安貴族だったようです。山が貴族ですか!
貞観10年という年が気になりますね。
「従五位下を授かった」ということは、朝廷(天皇)が位を与えたということでしょうが、なぜそのタイミングで当時のド田舎の山の神にそんなことをしたのか?
これはもう富士の噴火以外に考えられません。
しかし、「日本三代実録」ですでに「檜峰の神」と称されていたなら、「火の峰」は考えすぎだったかもしれませんね。
(ただし、当時の書物は万葉仮名だったかも。であれば「ひ」の字が本当はどの字なのかは不明ですね。)
良く里山に祭られている御社は、信仰する山等と対面で設置されていると感じられる事が多々有ります。それを当てはめますと日記に掲載されている檜峰神社の御社は、多分富士山を見ていると察し、google Earth 3D地図にて確認をしました。三ツ頭から檜峰神社までの登山道はまさに富士山の方角とほぼ一致して、多分御社もその方向を見ていると推察されます。
実際の登っていませんが、状況としてはpasoさんの「ひっかかり」を裏付ける状況の一つが揃いました。凄い
火山の噴火は当時の人々には大地か神の怒りと感じたのでしょうね。
この一連の八ツの話に興味を持って頂き、大変うれしいです。
確かに、三ツ頭から権現岳に向かうルートはぴったり富士山への向きと一致しています。
権現から下山する時は富士山を真正面に見ながらになりますから、もう「体験済み」ですね。この視点は気が付きませんでした。
すると檜峰神社が何を使命とするものなのか、という私の推察を補強して頂いたことになるでしょうか。
機会があれば、kintakunteさんもぜひご自身で権現岳に登って見て下さい。
古代の人々の「怖れ」を感じることができるかもしれません。
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