![]() |
![]() |
![]() |
この二つの資料から県界尾根の旧ルートというのがあり、それが1970年代頃なんらかの原因で廃道となり新しいルートに変わったらしいことがわかった。
さらに去年県界尾根を歩いていたら尾根上の標高2300m付近に「清里方面」と書かれた道標が落ちているのを発見したため、この「旧道」の存在はさらに確かに思えるようになった。
冬が過ぎ、ようやく歩けるようになった大門沢を、カミさんのハイキングを兼ねて二人で遡ってこのルートを実地に探索してきた。
県道615号線終端部に車を置き、県界尾根登山道に入る。しばらくは現在の県界尾根ルートと同じだ。
約30分ほどで「小天狗→」との道標があり、県界尾根ルートは右の山に上って行く。この分岐を曲がらずに直進するのだが、道は明瞭だ。
いまはこの先にもいくつもの砂防ダムがあるのだからかつてはこの先まで重機などの車が入っていたこともあっただろう。ところどころ林道のような巾があり、わだちらしき二条のへこみもある。
1971年地形図や日本山岳大系の地図では登山道は大門沢の右岸を走っているように描かれているが、地形からして右岸にはそういう道があったとは思えない。左岸(上流に向かって右側)を歩いて行く。道はところどころ不明瞭だが、ほとんどの範囲で迷うべくもないほどに明らかだ。
砂防ダムをいくつか越えて行くと標高2000m付近のダムが最後という気配で、沢巾はその先では一気に狭くなり、水もほとんど涸れてしまった。
そして標高2080m頃、地形図で旧道が尾根に向かって急カーブしているあたりで沢状のガレ場に突き当たり、そこで途切れていた。
地形図や現在のGoogleEarthの画像から、旧道は山腹の崩落でもあって廃道になったのだろうと想像していたが、間違いなさそうだ。
ガレ場の上を見上げると沢はY字型に上の方で二つに分かれている。見える尾根は200mほど上のようだから標高2300mの古い道標のあたりじゃないだろうか。
沢の傾斜はそこそこきついが歩いて登れないことはなさそうに見える。
しかしこのガレが道だったわけじゃないからこのガレを遡上しても意味はないだろう。次回は尾根上の古い道標から下降する向きで下と繋がるか試してみたい。
ちなみに今回歩いた道には旧道を表すような道標や赤テープ(ペイント)または石積みみたいな遺構はまったく発見できなかった。しかし道らしき踏み跡は意外と明瞭でそれが不思議な感じだった。
上図左)1971地形図の県界尾根旧道(矢印部分)
上図中)今回探索の終点ガレ場
上図右)今回の歩行ルート図
Pasocomさん、こんばんは。
お〜県界尾根旧道探索に行かれましたか。
沢沿いのルート、ダムの建設道もあって旧道はもはや分からなくなっている感じですね。
ところで、自分の県界尾根レコに2枚ほど地図を載せていますが、Pasocomさんの1971年地形図とも違った位置になっています。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-476575.html
・5万図1977年版では標高2000m位から支尾根に乗るような感じで2240m位に突き上げています。
・日本登山地図集(1975)も標高2000m位から上がっていますが、こちらは途中でガレ場を横切るようにして2300m位に上がっています。
ガイドマップのような日本登山地図集がもっともらしい感じもします。どれが本当なのか興味深いです。自分も行ってみたくなりました。
コメントありがとうございます。
こうしてみると県界尾根は何度も付け替えられているのでしょうか?それともどれかの地図が間違っている?国土地理院の地形図が数年前のものをわざわざ改訂して間違っているとも思えないですね。
歴史を辿ると県界尾根は実に不思議です。
小天狗という場所には江戸時代の薬師観音石碑がありますから、ずっと以前は少なくとも小天狗を通過していたはずです。
その後大正時代に発刊された「どの山に登らふか」という本では明治期の登山記録らしいのですが、「海ノ口の牧場も眼下となり、いよいよ登って薬師観音像に着く」とあります。清里から登っているのに、長野側を見下ろしているということは小天狗以前で尾根に上がっているということになりますね。
そして昭和18年発刊の「日本山岳案内」ではすでに2000m付近まで大門沢を遡上してガレ場の横を尾根に突き上げているという、1971年地形図とほぼ同じルート図になっています。
その後maruiさんがお持ちの二つの地図のように刻々と変化したとすると、なぜそんなにも変わったのでしょう。
そしてさらに。
どの地図にも共通なのは大門沢に沿って遡上するルートはいったん右岸(真教寺尾根側)に渡り、上流で渡り返していることです。(驚き)
日記の本文では「右岸に登山道があったとは思えない」と書きましたが、どうも本当は右岸にあったように思えます。ただこの渡り返しポイントもあちこちと動いているようです・・・。もっともそのくらい上流では「日本登山地図集」にあるように水は伏流していて沢は枯れているのでどこでも渡れるのですが。
また昭和期後半まで使われていた登山道なら古い道標が木に打ちつけられているとか残存物がありそうなものですが、そういうのが一切なかったのも不思議なことでした。
あれこれまだまだ不明点が多いですね。ぜひmaruiさんも探索してみて下さい。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する