![]() |
東京なら神田の古書店をめぐるとか国会図書館で調べられるのだが・・・と思ったところでふと気が付いた。
ときどき閲覧している山梨の地誌「甲斐国志」は実はネットの「国会図書館近代デジタルライブラリー」だ。
であれば、他の史料だってこのライブラリーで見つけられるんじゃないか。
http://kindai.ndl.go.jp/
さっそく検索窓に「八ヶ岳」と入れて検索するといくつもの書籍がヒット。発行年を見ると大半が戦前(1945年以前)のもののようだ。著作権の切れたものだけってことか。
その中からめぼしいものを開いていると下記のような本が見つかった。
横井春野著 「何の山へ登らふか」(昭和2年=1927年5月)。
日本中のあれこれの山の解説や自らの登山記なのだが、その中にどうも県界尾根らしき道を登った登山記があった。
なるべく原文に忠実に引用しているが、例によって旧漢字、仮名遣いは適当に今風に直させて頂いている。
(二)甲斐国、国堺(コクカイ:村名)より登る。
この路は新道にして知るものほとんど稀なり。(参謀本部20万分の1図にこの村名なし)
本文の筆者は、甲斐国金峰山を西山梨郡(昇仙峡)より上り、裏山越えに北巨摩郡小尾に下り、樫山峠を越えて信州平沢に到り大門川に沿いて開ける新道を北行し、川に架けたる大門橋を渡りて、この新村より登山を果たしたり。
すなわち橋を渡りて向岸に到れば、また甲斐国北巨摩郡となり、信甲の境界標をここに建つ。
八ヶ岳裾野の一部に、新たに植民せるものにして、人戸わずかに六戸(36年)。ことごとく旅舎を業とするが如く、荒寥たる高原地にして東北に浅間、西南に甲斐の白峰を座らにして(座らせて?)見る。
ここにて導者を貸し、西と北の間に向かいて、裾野を行くなり。馬路と潤水と縦横して、路ほとんど弁ずべからず。
ひとたび森林に入り「をゝみ平」(ダイラ)(淡海平?)より大門の河原を横切り、樵夫(きこり)兼登山者宿用の小舎を東に見て、八ヶ岳の最高峰、土俗いうところの「赤岳摺(ズ)リ」を目がけ一直線に峻路を登る。
喬木森々、榧(かや)、栂(つが)、檜(ひのき)等はなはだ多し。
上ることいよいよ高くして、権現岳を南に、赤岳を西北に仰ぐ。海ノ口の牧場の如きは眼下にあり、
いよいよ上りて、石造薬師像を置けるところあり。次いで安山岩の大塊に石造天狗を安んずる地に出づるや、赤岳、額より生えいでたる如く近し。
ついにハイマツ帯になり、あるいは溶岩を踏み、赤岳の小舎を目がけて上りつく。
要するに、この路は未だいわゆる路をなさず、樹木の妨害きわめて多きをもって、困難名状すべからず。
しかれども、草木はまたきわめて豊穣なり。
******************************************************
「をゝみ平」がどこなのか?ちょっと調べてもわからないが、北西に進んで大門沢を渡渉していることからして、横井氏は清里側から入山したらしい。
そして、薬師像(おそらく石碑のことだろう)や天狗像が立つということから、明らかに現在の県界尾根の「小天狗」「大天狗」を通過しているのだが、小天狗の手前ですでに県界尾根に上がっているらしく「海ノ口の牧場の如きは眼下にあり」と佐久側を見下ろしている。やはり今のルートとはまったく違っているようだ。
まあ、「この路は未だいわゆる路をなさず」というのだから、今風に言うとかなりな「バリルート」だったのだろう。
後になって、この文章が例の北村宏氏の「八ヶ岳 もう一つの魅力」の中に紹介されているのを見つけた。それによると、上の文は「明治39年の高頭式著の『日本山嶽志』の中の『八ヶ嶽』の項」に書かれているのだそうだ。
すると、この様子は当然それ以前のものだと考えられるのだった。
おはようございます
昭和五年という記述に心惹かれました。
この時期は、加藤文太郎氏が北アルプスに挑戦した昭和三年から亡くなられる昭和十一年に相当しますね。
本の作者も、たぶん地元の案内人を連れた山行だったと想われます。
著作するほどですから加藤氏二十代で著作者が四、五十代でしょうか・・
文章の内容はともかく、文脈にそういった時代に生きた登山家の意気込みや息吹が感じられますね。
>八ヶ岳裾野の一部に、新たに植民せるものにして、人戸わずかに六戸(36年)。
未開発の地に踏み入った冒険家を自負した文章ですね。
八ヶ岳登山の黎明期なんでしょうね
>赤岳の小舎を目がけて上りつく
それにしても、この当時より小屋が存在していたんですね・・
これは猟師の小屋でしょうね・・
信仰のお山ですから信者さんの道が他に定まっていての信者さんの休憩・非難小屋だったのかもしれないですね
いろいろ想像をふくらませると面白いですね
でわでわ
早朝よりのお越し、ありがとうございました。
この本の著者「横井春野」を検索してみると、意外と山関係ではなく野球と能楽の著作が多く見つかります。随分多才な方のようですがいったいどういう方だったんでしょうかね。
生涯は1891-1944年とのことなので、この本が出版された「昭和2年(1927年)」には36才だったことになります。
加藤文太郎氏は1905年生まれとのことですから、それよりも14才年上ですね。
1944年没とは戦争・空襲などでしょうか。なにしろほとんど情報がない方です。
文中に「ここにて導者を貸し、」とあるように(貸す、は借りるの間違いか?)案内人を頼んだようですね。
「赤岳の小舎」については現在の頂上山荘ではなく、天望荘の位置にあった「赤岳石室」のことかと思われます。
この小舎は戦前の地図にも載っているようで相当古いらしいです。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する