二十三夜峰は南八ヶ岳縦走路の地蔵ノ頭から横岳に向かうと見える特徴的な形の岩峰のことだ。「峰」といっても山ではない。
この二十三夜峰もご多分にもれず、そのふもとに「二十三夜」の石板が置かれていることから名付けられたようだ。
「二十三夜」とは何か?調べて見ると、
「月待ち信仰の一つ。十三、十五、二十三、二十六などの月齢の夜に人々が集い、月の出を待って供物を供え、観音経を唱え、無事息災を祈り、勤行や飲食を共にする古い風習。特に関東地方や長野県に多く見られ、所によっては二十三夜塔と呼ばれる石碑が建てられている。」
とのこと。
ここにいう「人々」とは主に女性達のことらしい。二十三夜は月齢23の日だから旧暦でいうと「毎月23日」ということだろう。この月は「下弦の月」であって、月が出てくるのは真夜中12時ころになる。
「月の出を待って・・・」というと、行事は真夜中に行われるということだ。そんな時間に女達が集まる風習とはいったいどういうことだろう?
これ、ひとつには「月」は世界中のどこでも「女性=母」に関連付けられるということに関係するようだ。
実際「二十三夜」は「多産」を願う行事だったという説もあるよう。
また一つには、昼間男どもにこき使われた農村の女性達が夜中に羽目を外してストレス解放したという「実用(真夜中の宴会)説」もあり。
二十三夜峰の根元にある石板には「中道村」とある。この村は現在の茅野市泉野あたりになるのだが、おそらくその村人達が八ヶ岳の稜線にあるこの巨大岩峰を二十三夜塔に見立てて置いたのだろう。
中道村は明治8年に他村と合併し泉野村になっているので、それ以前おそらく江戸時代に置かれたものではないか。
さらに調べると二十三夜という行事は「勢至菩薩(せいしぼさつ)」を本尊として祀るものであって「勢至菩薩」は阿弥陀三尊の右脇侍、つまり向かって左に立っているお方なんだそうな。
「二十三夜峰」から「阿弥陀」に続くとは! 八ヶ岳はさながら曼荼羅の世界のようだ。
写真左)地蔵ノ頭側から見上げる二十三夜峰
写真中)その足元に置かれた石板。左下に小さく「中道村」と。
写真右)安曇野などで見られる二十三夜塔
おはようございます!pasocomさん^^
二十三夜?確か埼玉にもあったな。と調べてみたらありました!以下全文です。
二十三夜は、さいたま市南区太田窪の川口市境近くにある地名。
“二十三夜”とは、月待ち、つまり月の出を待ち祭る行事の一つで、これに参加する人々の集団を二十三夜講と呼ぶ。
地名はこの講に由来するものである。
この行事は中世以来非常に盛んで、その講は全国的に行われていた。
太田窪の場合には、北条氏と足利氏が争った時、この辺りから多くの農民が兵士として徴用され、彼らの身を案じたその家族たちが集まり、武運長久・安心立命を祈ったのが、月待講として行事化されたと伝えられている。講は7月1日の夜六時頃から行われ、勢至菩薩を祀り観音経を唱える。
かつては祈願堂があり、そこで講がもたれたそうだが、天保三年(1832年)に老朽化のため廃堂となった。代わりに石塔を建てたのが“二十三夜供養塔”で、現在も産業道路近くに立っている。
おお、面白い情報をありがとうございます。
「浦和の産業道路」なつかしい響きです。
地図で見ると地名としてはなくなってしまったようですが、「二十三夜交差点」があり、川口市内になりますが「安楽亭二十三夜店」もある。確かにここは「二十三夜」という地名ですね。
そして二十三夜の意味も「勢至菩薩を祀り観音経を唱える。」も私が調べたものとほぼ同じ。「農民が兵士として徴用され、彼らの身を案じたその家族」となるとやはり女達ということでしょう。
それにしてもその講が地名にまでなるとは、相当盛んだったんでしょうね。
「かつては祈願堂があり、廃堂となった代わりに石塔を建てたのが “二十三夜供養塔”」
というのはすごい情報です。
私は、なんのために「二十三夜塔」を建てたのかと思っていました。
すると中道村でも同じような事情で代わりに八ツの岩峰を二十三夜塔と見立てたのか?
いやそりゃ、かなりダイナミックな話ですねえ。
面白いですね。
全国的に流行っていたみたいで、「農村の女性達が夜中に羽目を外してストレス解放」なんて、今でいう女子会でしょうか(笑
私も先週金曜日は恒例の女子会でした 。 女子会割引使用
夕方6時半に駅で待ち合わせ、いつものようにお酒飲んでおしゃべりしてストレス発散!
大昔からあった事なんですね。
お供え物を持ち寄り観音経を唱えたあとは、お供え物を頂きながらおしゃべりタイムだったのでは?
二十三夜講=女子会
二十三夜峰、是非行ってみます!
さらにネットを調べていると江戸時代の古文書(というほどではないけど)に、
「縁日は二十三日。・・・勢至菩薩を信心して、とり分け正五九月の二十三夜待には、一家一門は勿論、心やすき朋友よりして、町内の人々迄も呼集め、浄瑠璃三味の楽み、または謡の声色のとて夜を更(ふか)すことなり。」
という一文がありました。
毎月定例で開催されていながらも「1、5、9月」は特例でどんちゃん騒ぎしたような(^^)
それもどうやら「女子会」の様相だったらしいです。
なにしろ、最初に引用した文章でも「勤行や飲食を共にする」んだそうで、「勤行」はまあお経をあげたんでしょうが、その後はお供え物もあることだし宴会だぁ!って容易に想像できますね。
昔の女性は労働、育児、家事まで請け負って本当に大変だった。その「ガス抜き」を考えたのはぬかりない男どもだったかもしれません。
うんむむ、、二十三夜!女子会だったんですね!(単純なC54でした)なんだか全国的にもあるようなんですね〜
八ケ岳のは今でいう茅野市泉野あたりの昔の人たちが信仰してたとしたら、全国でもかなりダイナミックな塔ってことになりますね! 「中道村」の石板は気づきませんでした。さすがパソコンさんでございます。
ワタクシは単純に名前がカッコイイ!って思ってただけなんですけど、上野原のほうにも二十六夜山っていうのがあるから、いつか行きたいとは思ってるんですよ (冬場にですけどね )
コメントありがとうございます。C-54さんから頂いたコメントから二十三夜の風習などがこんなにわかってとてもうれしく思っています。
こういうことを知っていると現地に行ったときにまた別な感慨がありますよね。
「上野原のほうにも二十六夜山っていうのがある。」というさらなる情報もありがとうございます。山梨の山なのに知りませんでした。
調べて見ると、上野原と道志に「二十三夜山」があり(ややこしい)、上野原の方は元秋山村という地名から「秋山二十三夜山」、道志の方は「道志二十三夜山」と呼ばれているようです。
ヤマレコで「秋山」の方のレコを見つけました。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-344093.html
山頂ではないようですが、稜線上に「二十三夜塔」が建っていますね。
また「道志」の方はこんなサイトがありました。
http://www.kei-zu.com/qtvr_cubic/nijuurokuya/_flash/nijuurokuya.html
道志といっても二十三夜を行ったのは都留の集落じゃないか。だから「都留二十三夜山」というべきだ、と。
こちらも山頂にりっぱな二十三夜塔がありますね。
さらに都留市営温泉は「月待ちの湯」だそうで、こりゃ優雅な名前です。
こうしてみると「二十三夜」という行事は、意外とあちらこちらにあるようです。
しかし八ツの岩峰を「二十三夜塔」に見立てるなどという大胆不敵なことをしたのはさすがに八ツのふところ茅野の方々なればこそですね。
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