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この遺構は青銅(ブロンズ)製で、台座とその上に二足の靴しか残っていない。
台座の正面には「当国諏訪 上小川郷中」という文字と家紋らしきものが大書きされている。
そこでまず、家紋についてあれこれ推察したのが前回の日記だ。
http://www.yamareco.com/modules/diary/21844-detail-85442
まず、棕櫚の葉の紋についてotkmeさんが「これは棕櫚紋(羽団扇紋)であって、富士山信仰の紋」だと教えて下さった。
またその上にある山のような印についてはyoneyamaさんから「山丸三マーク=御嶽山信仰」の印に似ているとのご指摘も頂いた。
この時、私は「丸に三引き」は近藤勇じゃないか?という珍説を書いたのだが、どうもこれはいかにも珍妙すぎのようだ。
その後も気になりつつ、あれこれの調べたり思考をしたものの、この先には特に進展がなく過ぎてしまった。
私が気になっていたのは、やはり「山丸三マーク」だ。yoneyamaさんのコメントには、「これは『山マーク』ではなく『八』じゃないか?」と返事を書いたのだったが、それから先が進まない。
ではyoneyama案に戻って「山丸三」だと考えたらどうだろう、と思考。
そうすると、八ヶ岳の山頂に御嶽山信仰の像が立っていたのだろうか。
御嶽山信仰の神とは?と調べて見ると、「国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とし、この三柱が御嶽山座王権現だと考えられるようになった。」のだとのこと。
おや、ずっと以前に赤岳南峰に立っていたといわれるのも「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」の像だとか。
画像検索してみると御嶽山にも、この三柱の像が立っているようなのだが、これは法衣のようなものを着ていて帽子もかぶっていない。靴を履いているようにも見えるが、どうも仏像的な姿をしている。
赤岳南峰に立っていた像は「衣冠束帯」だとされ、仏像風ではなく平安貴族風だったようだ。竜頭峰の遺構も靴の感じからして同じ衣冠束帯風だったんじゃないだろうか?と考えて、さらに検索すると、あった。
栃木県は大真名子山(おおまなこさん)の山頂に「蔵王権現(国常立尊)像」として衣冠束帯の像が立っているらしい。「蔵王権現」は「座王権現」と同じだ。
http://kenbosuzume.blog35.fc2.com/blog-entry-2377.html
このブログによると
「御嶽信仰の神である三体の銅像は、・・・文久三年(1863)に江戸で鋳造され壬生河岸まで舟で運ばれ、その後は陸路で日光まで運ばれ、山頂まで担ぎ上げられている。」とのこと。
1863年は、竜頭峰遺構の台座に刻まれている元治元年(1864年)の前年だ。
しかも、他の方のブログ
http://sunsuihanayukiho.blogspot.jp/2012/01/blog-post_24.html
の一番下の写真を拡大して見ると台座には「山と三」が刻まれているのがわかる。(丸はないようだが)
この写真を見ると、像の大きさ、台座の雰囲気、靴のようすなどが竜頭峰の遺構にそっくりだ。
また建立された時期もほとんど同時。江戸時代末期のこの時期は関東一円に御嶽講が広く布教されたそうだから、その時期に長野の諏訪にもその影響が及んだとするのは自然な感じがする。
つまり、竜頭峰の遺構は御嶽講の神像だったんじゃないだろうか。「山丸三」がこのことを証明しているように思える。
同時期に建立されながら、大真名子山のものはこれほどきれいに残っているのに、赤岳のものは散逸してしまったのは、やはり風雪の影響が相当大きかったせいじゃないだろうか。竜頭峰遺構の靴を見ても、道具で切断したというよりも腐食して朽ちた、という感じだ。
「金属目当てに悪い奴が盗んで売り飛ばした。」という山口耀久氏の説はマユツバな気がする。
写真左)竜頭峰の遺構
写真右)大真名子山山頂の蔵王権現像
pasocomさん、おはようございます!
「調べた八ッ」シリーズ、いつも興味深く拝見してます。
御嶽山山頂の銅像写真、コメントに張り付ける方法が分らなかったので、日記にアップしました!
やっとでけた!!かなあ?
コメントとわざわざ日記をアップして下さり、ありがとうございました。
そちらの方にもコメントさせていただきましたが、貴重な写真をありがとうございました。この像は現在無事に立っているんでしょうか?これが「国常立尊像」なのですね。
私が画像検索したものは全く別の三体の画像でした。
自分自身が御嶽山に登ったことがないので、そちらがどこにあるのかも知らず、思えば適当なことを書いてしまいましたが、それはどうも「王滝口7合目」に立っているもののようです。(下写真)
大真名子山に立っているものも、Casuminさんが写された山頂の像と似ている気がします。
それに、この衣装や靴の感じ、いかにも竜頭峰の遺構に似ていると思います。
とても参考になりました。
こんちわ
同時期に建立された・・
ブロンズの腐食は硫黄酸化物でしょうね
硫黄岳爆裂火口を思うと大気の硫黄分が銅像を腐食されたと考えるのが普通ですね
たしか・・槍ヶ岳開山の新田次郎氏の小説に、笠が岳銅像を京都だったかの鋳造師に依頼して云々のくだりを思い出しました。
こういった仏像、銅像の鋳造は日本でも少なかったでしょうね・・
御嶽教・・なるほどと思える節ですね
シリーズも佳境というところでしょうか
でわでわ
いつもコメントありがとうございます。
私も仕事上、鉄やアルミの腐食には詳しいのですが、建築材でブロンズはあまり扱わないのでよく知りません。
ちょっとネットで見たところ、ブロンズは銅版と同じで錆びると緑青を吹くようです。その膜で内部の腐食の進行が抑えられるとか。
だとすると、腐食説は間違いかもしれません。
ただ、写真でご覧のように靴も穴が開いて相当腐食している感じですね。
現代彫刻のブロンズ像は薬品できれいな皮膜を作って経年変化しないようになっているらしいです。(茶色のまま)。
江戸時代ころの屋外に置く仏像、神像はたいてい石像だと思っていたので、私も江戸時代の青銅像には違和感がありますね。奈良の大仏じゃあるまいし・・・(^^)
ただ、otkmeさんによると諏訪地方では鋳物師の伝統から現代の精密工業の発達に繋がったそうで、珍しい場所だったのかもしれません。
それとも、大真名子山の像は江戸で鋳造されたそうだし、この時期一挙にブロンズ像の技術が発達したというようなことでしょうか。
里で作った像を山頂まで揚げることを考えれば少しでも軽くしたいところ。山に立つ像はそんな特殊事情もあるでしょうね。
あれこれ考えるとますます分からなくなってきそうです。
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