●同じ山でも登山口が違うと別の山であることに気がつく。吉田口、富士宮口、御殿場口、須走口。一致するのは山頂の一点だけ。線であるルートは多様だが、それは登山口と山頂という2つの点を結ぶ線に過ぎない。
●夏山登山道登山ではここまでだが、実際の山は線と線の間に無限にある面で出来ている。雪山に登れば、線は幻想であり、もともと存在しなかったことに気がつく。登路の選択肢は無限にあり、沢、尾根どこを取るかは雪の条件と経験技術体力次第だ。無雪期も、登山道という人口線の間には無数の沢という天然線があり、その間には藪という面がある。
糸一本の線の上しか歩けない虫がそこから外れると「道に迷った」と混乱する。
●実際の山は地形図上の山の領域を飛び越えて海まで広がっている。山から流れる沢は、支流を集め扇状地を作り盆地で合流し他国へ流れる。目玉をドローンに乗せて、空想で山を俯瞰するが良い。
ヤブの中で視界なく、地形図を穴が開くまで見て現在位置の推理に悩んでいる憂鬱がウソのように晴れる。
何故この場所に山麓の集落が出来たのか、人の往来はどの地形的弱点を通って街道が出来たのか、山全体を立体的に見ることで知ることになる。
●7世紀に役行者が登った時代背景、1785年に覚明行者が御嶽山を開放した大衆登山、1828年の播隆上人の槍ヶ岳、19世紀末のアルピニズムの隆盛、開かれた登山道、自動車道、ロープウェイ。廃れる街道峠道、古代近代〜1950年代まで続いた杣人産業の遺構、16世紀の山城と狼煙台の跡。それに岩層が語る隆起と噴火の物証。時間的な積層を知ることがまた山を見る目を変える。
千葉県とか茨城県とか、大した山がないとされるところに住んだとしても、たとえ小さな山でも、こうして楽しむことができると思う。山を「点」一つの見方だけで終わらせてしまうのはもったいないことだと思う。
以前、「旅」でも同じような考察をしてたことあります。
点の旅、線の旅、面の旅。
パッケージツアーのように目的地を無駄なくポンポン飛び回る旅、
自分の足で目的地まで行く旅、
四季折々に気ままな寄り道しながら色々な道から向かう旅
・・・
今は実際に出歩かなくても、日々の暮らしの中で旅してる気分です。
これって、ものぐさになっただけかも・・
日々の暮らしの中に見出すというのが極めたあたりと思いますよ。わざわざ遠くまで行かなくても、いろいろありますからね。最後は自分の身体かも。
それを思うと過多過剰な情報が、現代人に思考せしむる機会を損なっている側面が在るんですしょうか。冬山沢登りだけではまだまだ見えていません。
これは御著書に今からでも挟みたい文句ですね。
やっぱり誰しも点から入って、「過多過剰な情報」に溺れて、「思考の機会を損なっ」た後に見えれば良いと思います。それにはなるべく途中で、飽きてしまわないことだと思います。
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