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先日木曽福島の図書館で発見し、木曽義仲法廷日記という本では、義仲の京都での乱暴狼藉説が平家物語の捏造である過程を、証人の琵琶法師や、作者が実際に目にして書いたかどうかを、当時の公家の日記や吾妻鏡など古文書を紐解き弁護人と検察が争って進めます。
https://yosinaka.jimdo.com/%E3%82%84%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%84%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E7%BE%A9%E4%BB%B2%E6%B3%95%E5%BB%B7%E6%97%A5%E8%A8%98/
信濃出身者として政権中央に最も上り詰めた出世男、非情な最後を遂げた男。幼馴染の巴御前という女房付きで義仲記念館に銅像あり。訪問日はあいにく休館日でござった。その裏の徳音寺でお墓参り。薄紫の石楠花が盛りでござった。
同じ頼朝にハメられ組の義経は伝説もあり人気もあるのに、義仲はあんまり気の毒だ。歴史は勝者が書く。死人に口無し。せめて信州人くらいは義仲を語らなければ。
というような話をイトコを暗殺したキムさんとムンさんのパンムンジョム握手中継映像を見ながら、歴史番組担当班に居たディレクター氏と話していました。
yoneyamaさん、山奥の沢の奥の方に木曽殿アブキという岩窟があって
子供の頃父親に連れられて行きました。
木曽義仲公が戦に向かう時にここで兵や馬を休めたとの事でした。
急流の沢にかかる一本橋を渡り、藪を漕ぎ漕ぎたどり着いたこんな山奥を
昔の武将さんは進んだの、
と子供ごころにへぇ〜な気持ちでした。
その一本橋はその後ちゃんとした橋になりましたが、
雪解け後の沢の氾濫で決壊して、もうそのままです。
岩窟の名前は残っていますが、もう行くことは難しいですね。
裾花川でしょ。25年ほど前、高妻山まで遡行する時、入渓点だった。意外に広くて、驚きの岩窟ですよね。あれは義仲伝説の場だったんですねえ。
yoneyama さん こんにちは
私は昨日、逃亡中の源義経が何度も振り返ったことからその名がついた「顔振峠」に行ってきました。
歴史は後から作られる、っていう気がします。
連休やっていますね。義経は、青森の龍飛にまで伝説があった人気者で。
東北あたりかと思ったら、埼玉県飯能市?
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