週末久しぶりに晴れた。娘は風邪で、終日昼寝と満洲国舞台の活劇マンガで療養。日頃頑張りすぎれば休養だ。近所の実家母89歳を軽自動車に載せて梓川左岸に連れ出す。
倭(やまと)という集落の外れに母の母の墓がある。以前はここへのバスもあったが今はもう無い。庭の菊を切って持っていく。墓標には満洲で幼児のうちに死んだ母の妹の名もある。10年ほど前亡くなった兄キの名もある。母の父は引き揚げのとき行方不明。倭は母の母の出身地だが、1920年代から渡満していたので、周辺に縁故はもう無い。
そのあと、やや北の温(ゆたか)という集落の古刹、平福寺で散歩する。このあたりは引揚後母の母と、母の三姉妹と兄が厄介になった、母の父の親戚の里だ。そこで肩身狭くも世話になった旧姓の親戚筋の墓を探してみる。同じ姓は多くある中で、その家の墓は見つからなかった。母がここで過ごしたのは1950年前後の話。あんまり良い思い出もないのか、近くを歩いてみるかと聞いても、もういいよとのこと。墓まで持っていきたい話は誰にでもあるだろうと想像する。「ダウンタウン・ヒーローズ」の映画の薬師丸ひろ子のヒロインが、「私、満洲からの引き揚げなの」と、父のいない、遠い親戚で肩身狭く厄介になっていた女学生を演じていた。あの境遇だと思う。
産直市場で野菜を買う。年をとって自分で外出できない、バスに乗って駅まで行くって言っても、結構エラい。時々軽自動車で連れ出すと、買い物が楽しいのだと思う。食べられようが食べられまいが、買い物がしたいのだ。
柿、りんご、ネギ、カブ、少しだけど野沢菜ももう出ていた。母はたくさん買い込んで、ほとんどウチにくれた。
堀金烏川に、最近よく行く「ひさりな食堂」にお客のひいた昼過ぎに入って、滋味深いラーメンを食べる。とてもおいしい。母は全部食べてしまった。最近こんなに食べたの見たことがない。北の窓からは、田園のさき、鹿島槍と、京ケ倉と、聖山が見える。母は大滝山と鍋冠山のあたりについて知りたがった。
昨年の今頃、大病から復帰した父はもとから一人が好きだから、誘っても一緒にあんまり出歩かない。しかしよく食べ、時々自分で自転車こいで食料を買いに行く。自分のことは自分でやりたい。これはこれでしばらく大丈夫だと思う。陽気に料理して、柿を剥き、栗を剥く。父の一家も敗戦後京都からこっちに引き揚げて、餓鬼岳の麓の遠い親戚の家で10年ほど過ごした。北安曇にあって京都育ちの6人兄妹は言葉も違い、苦労もしただろう。
しかし、若い頃からの知り合いがどんどんいなくなって、ある者はボケていって、養老院に入れられていって、その孤独はどんなだろう。
浦島太郎の唱歌で、
帰ってみれば こは如何に 住んでた家も村もなく 道で行き交う人々は 顔も知らないものばかり
というのがある。懐かしい人はどこかにいないか?
せめて映画の中にでも。
お母さんの話、しみじみと心に届きました。
おふくろ、買い物誘うといつも「そうだねえ〜」って、ちょっともったいぶって、いそいそ支度してたりして、八十台の頃だった。買うものそんなにないはずなのにね。そうだったなあと思いながら読みました。
まだまだ長生きされるでしょう。どうぞ大切になさってあげてください。
>しかし、若い頃からの知り合いがどんどんいなくなって、ある者はボケていって、養老院に入れられていって、その孤独はどんなだろう。
そんなこと言わないでくださいな。その「孤独」はきっとそれほどのこともなく過ぎると思います。人の世は大きな諦念のようなものです。
年寄りがたくさん買い物して困るって書いていた人生相談に、誰かがよい答えしていまして、買ってくるのはまだまだ家族と生きたい意欲があることなんだから、食べきれないほど食べ物買ってきたらたくさん料理して一緒に食べてやってくださいと書いてありました。買い物って、人にとって結構大切な営みですね。
>しかし、若い頃からの知り合いがどんどんいなくなって、ある者はボケていって、養老院に入れられていって、その孤独はどんなだろう。
の意味は、若い頃の知り合いがみなどこかに行ってしまって、取り残された母が、もう誰も会う人もいないんだよ、いやだねえ。と言ったのです。まだまだ諦念してません。
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