本町の時計博物館の3階で、ここ数年の松本市内の発掘調査の速報展をやっています。
縄文遺跡、古墳時代、築城時代、寛永年間の成果が展示してありました。住んでいる町のあのへんかあ、とわかるのが、ローカル史の面白いところです。
●5000年前の縄文中期は八ヶ岳北部の和田峠の黒曜石バブルで、信州中部は列島内でもかなり人口密度が高かったとのこと。このあたりで見つかった縄文土器片など。
●1700年前の古墳時代には今ウチの一家が住んでいる、城外東側、薄川、女鳥羽川扇状地の末端付近に古墳がたくさんあったらしい。信濃国府がこの近くだったというから3世紀からの数百年は、この辺が住みやすいところだったのかも。
●そして、400年前の築城時代、外堀と総堀をつなぐ水路跡の石組みや樽を使った水路システムの遺構など。寛永通宝の鋳造所を匂わすバリ付き銭や不純物塊なども出土。7代目藩主松平直政が家康の孫だったコネで、松本なんかで鋳造していた物証です。
時代が下るほど、標高が下がるのが面白いです。
初めは温暖気候でもあったので、北アルプスや鉢盛山の扇状地の上の方が縄文遺跡地帯。次は扇状地端付近が古墳時代。信濃国府がこのあたりに置かれていたというのもこの時代です。そして近世の戦国末期の城郭都市作りが盆地の底の、川が合流する近く。
敵が見渡せ山がすぐ後ろで、水、燃料、建材、食材豊富なのが縄文期。
水を引いて耕作できる平坦地だけど洪水や渡渉に困るほど下流でないのが古墳時代。
土木技術を持ち湿地を整え堀と石垣と土塁で平城を作り、橋をかけ城下町を作る近世は都市に必須の流通のため、川は積極的に利用された。
こうして盆地の際から中央の合流エリアへと、人の暮らしは動いてきた。
東京や大阪や名古屋みたいな都市は、400年前まではほとんど湿地だったので。
こういう地味な会場で隅から隅まで見ているような人は通常あまり会いませんが、今回はねっちり見ている人が多数。気のせいかこういう関連の講演会も満席の事が多い。老人ばかりですが。
yoneyamaさん、こんばんわ。
遺跡からみる地域の歴史の変遷という
視点も面白いですね。
今、国分寺一の宮巡りをやっていますが、
ほとんどが近接していて、さらに近くに国府があります。
奈良時代あたりの政治文化経済の中心がそのあたりに
あったことが類推されますが、大抵、今の時代からは
やや不便なその地域一帯を見渡せるやや高台にある
ところが多いんですよね。逆に地理的に離れている
地方はなにがしかの理由理屈があったのかと。。
これまた興味をそそられます。
奈良時代の景観は、平地の樹林が結構なくなって、展望が利く時代になっていたのかな。やはり少し小高いところは人気だったのだと思います。まず、洪水も無いですし。想像するしかない過去の景観、地形だけがヒントですね。
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