うちには30〜40年前(昭和末期)の特大立体地図模型があって、濃尾平野の東の山麓の丘陵の感じなんかをつかめるのですが、愛知郡東部の瀬戸、長久手、日進、東郷を越えて豊田のある加茂郡の平地にはほとんど何も書いていません(写真左)。
40年前の地図では、「岡多線」が岡崎から北上して今の豊田駅の北の新豊田で終点。もう一つは刈谷から名鉄三河線が豊田駅を通り更に北へ延々伸びて旧足助町への途上、西中川という駅まで。こちらはいま豊田駅の北2つめの猿投駅までで、その先は既に廃線になっているみたい。以前豊田は、刈谷か岡崎から行く町だったようです。
しかし豊田にはトヨタ本社や関連工場があって、いまタイヘン栄えています。現在の地図を見ると、1979年に名古屋圏と直接通じる名鉄豊田線が、名古屋地下鉄鶴舞線から乗り入れ延長して元名鉄三河線の梅坪で連結して豊田駅まで。残る猿投駅がむしろ盲腸線になっています。
そして岡崎から来て新豊田で止まっていた元岡多線は、愛知環状鉄道となって北上し、瀬戸を通って春日井の高蔵寺まで行っちゃってました。豊田が鉄道でも名古屋から行くところになったのがついこの40年なのだとわかりました。
この中間部の丘陵地帯が、コロニー状の幾何学的な大規模住宅街になっています。大学や専門学校の敷地もすごく多いです。もともと雑木や森林の丘陵だったところなので、車窓は、樹林の中に忽然と現れる住宅街、丘の上の大きな校舎という風景が特徴的でした。名古屋は都心部に大学がほとんどなくて、ほぼこういう周縁の丘の中というのが特徴です。
自動車道路に至っては鉄道よりも更に何本も高架道路が伸びていて、こちらも未来の風景でした。40年前の地図では、東名高速と猿投グリーンロードという東西の途中で切れている道だけですが、今は未だ理解していないけど加えて2,3本、高架道路をくぐりました。自動車は凄く多くて、バス路線を時間調整でバス停二つほど歩きましたが大型車がぶっ飛ばして怖かったです。
猿投山の登山路の大岩の上からは、段戸山のある三河高原の高まりまで、広い豊田平野の広がりがすべて見えました。
愛知県の都市は16世紀以降、尾張の名古屋、一宮、津島が庄内川や木曽川で、岡崎は矢作川で、豊橋は豊川で、川をポイントに都市化したと私は見たてています。確かに、豊田には大きな川がありません。流通に川が関係なくなってすでに久しいけど、この広大な丘陵地が、自動車産業の戦後の時代を通じて鉄道開通を通して住宅地に変貌したのだなと感慨を持ちました。
やはり知らない土地は地形図的俯瞰観点を持って足で歩くのが面白いです。
原真氏のエッセイ?に、海外からの訪問客をもてなすのに三河は好適地であるというのがあったと記憶します。古き佳き日本の風景がここにはあるのだと。その原氏に言わせれば「豊田」はケシカラン、挙母だろうが、というのもありました。
一周りしてまた名古屋に来たので、原さんの書いたものをまた読み直してみたい。だいたいうちに揃っています。
この前元原病院の前を通ったら建物を取り壊している最中でした。あの病院の屋上で食事して、話聞いて、山を見たのがもうまぼろしだ。
本を開いたらすぐに見つかった。「頂上の旗」の137pだった。1986年のエッセイです。「足助なり、稲武なりの町中まで、足を使って歩いてみることだ。」「道端の寺の屋根を見て素通りするのではなく、車を降りて、山門をくぐり、本堂まで歩いてみると良い。」などなど、「奥三河は、日本の自然のさりげない原点とでも言うべきであろうか。戦前ならばいたるところにころがっていた、平凡で心あたたまる基本風景のようなものであろう。地味だから、人はこの地方の値打ちを見落としやすい。どこか遠くへゆく時の通路として、一気に通過してしまいやすい。」
当時のさりげない風景の担い手たちはすでにもう世を去り、後継者は減り、今はおそらく同じ風景ではない気がします。稲武も足助も、豊田市になりましたね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する