![]() |
1989年の3月18日にここで長野県の山岳研修機関主催の、県内の高校山岳部の顧問と部員対象の雪山訓練の最中に雪崩死亡事故が起きて、蟻ヶ崎高校の顧問だった新人教員、酒井君が死んでしまった。酒井は私と高校の同級生で、京都大を卒業して故郷に戻り高校教師になったばかりで山はほぼ初心者だった。
当時は登山ガイドは無く、山の指導は「経験者」が行うものだった。長野県の高校教師にはたくさんの山の経験者がいた。しかし日本中見渡しても、客観的な安全基準や科学的な雪崩対策も今と比べれば全くなかったと思う。ビーコンは90年代からだし、雪崩救助講習も、ゾンデ、スカッフ、コールの救助しか覚えが無い。弱層テストもまだ一般的では無かったと思う。
まだ大学の山岳部で5年目の山登りをしていた私は、この事故のあと酒井の家族が、県を相手に損害賠償請求の裁判を起こした事をきいて意外に思った。「そもそも山での危険と事故は当たりまえで、皆そのリスクを受け入れて登っている、山での事故は避けられない面があり、経験者が判断した結果ならばどうしようも無いものではないか」という感覚だった。社会も大体その雰囲気で山の事故での訴訟は非常に珍しかった。遺族はずっと我慢するしか無かった。
しかしその後の90年代、ガイドの仕組みが整い、同時に雪崩の仕組みやレスキューの共通常識も飛躍的に変わって浸透していった。一方で世の中の責任論や組織の危機管理に対する意識や責任も、災害やテロを機会にどんどん変わって行ったと思う。そして震災とオウムのあった1995年、主催の県に対し、事故の責任を負う判決が下り原告が勝訴した。画期的だった。
高校大学を通じ酒井の親友だった西牧はともに高校教師になり、今は私たちの母校の山岳部の顧問をしている。訴訟の間ずっと遺族を励まし、署名活動にも尽力した。以降、現役山岳部員を前にこの場でずっと雪崩遭難の話をしてきかせてきた。
山登りは、あくまで自分の覚悟と責任で登るべきだ、と当時も今も私は思うのだけど、今の私は、全くの素人が経験者の判断だけを信用して死んでしまった、その家族のやりきれない気持ちもわかる。
そして大きな責任と事前の安全対策が高校登山指導者と主催者に求められていたにもかかわらず、2017年3月に栃木県那須連山で、再び教員と生徒が亡くなる雪崩遭難事故が起きた。
初心者といえども、山の中では自分の頭で考えて危機を察知する感覚を磨くしか無い。人の判断に思考停止で乗っかってはいけないよ、ということをまず第一に知るべきだと思う。
高校の山岳部顧問には重い責任を引き受け得るほどの山の経験者が減り、ベテランもほとんど居なくなっていく。
14年前の、事故から20年の記事ですが↓今も同じです。みんな歳をとっただけ。
https://www8.shinmai.co.jp/yama/article.php?id=YAMA20090316009386
事故の半月ほどあと、私は知らずに遠見尾根の山行も行っていた。写真はその時の五竜岳と私。この時「カラーフィルムを忘れたのね。」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-21470.html
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する