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1972年、私が8歳のとき、木曽の上松に住んでいたその叔父さんの家を母と一度だけ訪ねたことがある。畳の部屋から見る広い障子戸の向こうは一面の緑の森。水々しい渓流の音が聞こえていた。りーちゃんにモリを持って近くの木曽川支流の透明な淵に連れて行ってもらって、水中メガネで潜って魚を突いたのを憶えている。一度きりしか会わなかったのは、兄嫁が母の家族と極めて仲が悪く、交流がなされなかったのだ。
敗戦のドサクサで満洲哈爾濱から着の身着のままの逃避行で母の母(40歳)と三人姉妹(16,14,4歳)の誰も死なずに済んだのは当時18歳の兄さんのおかげだった。その兄を突然、駆け落ち同様で奪われた恨みがどうしても消えなかったのだった。私の母は、その父にも兄にも、駆け落ちで置いていかれたことになる。
数ヶ月前に私がりーちゃんに電話をかけて50年ぶりに会うことにして、きのう松本駅前で会った。もうどっちもおっさんで似たようなものだ。母はまだ生きているが、あとの人たちはもうみんな死んでしまった。もとより私達には何もわだかまりはない。
あのきれいな川の場所も聞いた。獲った魚はアマゴだった。家はその時のままの築60年とのこと。ようやく退職したのでいま片付けでバンバン60年分の断捨離をすすめているとのこと。
その後のお互いの仕事や、家族の経緯や、木曽の産業の盛衰などを照らして話を聞いた。訪ねた頃の1970年代は、まだ木曽地方の林業に活気があって、沢山の人が働いて森林鉄道もガシガシ木材を運んでいた。今は「サビれちまってなあ。年寄りばっかだ」独り身だから、地域の人に認めてもらおうと、消防団も山岳救助隊もすごくがんばってきた。
今度、おじさんが建てたお墓じまいをするのだとか。満洲から連れ帰った母の母やあちらで死んだこどもの霊ともども。ひとつの家系が終わっていくのだ。もう、家系という時代ではないけれどな。でも家を繋ぐために母の母(はるゑさん)は、死んだ姉の後釜で、知りもしない夫のところに島々からはるばる満洲に嫁に行ったのにな。
木曽福島の美味い菓子をりーちゃんに頂いた。
もなかの常識を超えたモナカとそばまんじゅう。これはうまい。木曽福島には菓子屋が多い。ある時期経済が発展した町はそうだ。お届け物をする人が多かったってことだ。
またこんど、上松を訪ねる約束をした。
全くネタがなけりゃ2時間も話無いよね。色々時代背景とか地域の地形とかさ、聞いてみると知らない事がわかって面白いものですよ。まぁそうやって知らない人にでも懐に入り込んで話を聞きまくる仕事だったしね。
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