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2014年10月03日 22:37全体に公開

どのように死ぬか

人はいつか死んでしまいます。どんな風に死にたいか?あるいはこんな死に方はイヤだ、という問いをいろんな人に聞いてみると、
○死の苦しみを味わって死ぬのはイヤだ。楽に死にたい。
○人に迷惑をかけたくない。
というのが圧倒的に多いようです。
しかし、死ぬほどの苦しみを味わうのが死の直前であるかどうかという問題は、死の苦しみを一時味わってもその後回復して長く生き延びる場合がある事を考えると、あまり意味が無いような気がします。死ぬ間際に苦しかろうが苦しくなかろうが、長い人生の中では短い時間です。それに、数少ない生還者の手記に寄れば、本当に死ぬ時には苦しみは一切感じなかった、という話もあります(「死の地帯」R.メスナー著など)。
人に迷惑をかけたくないという問題ですが、世の中、多かれ少なかれ迷惑かけ合って生きているわけであって、周りにブツクサ言われるかどうかは、本人の生前の行い次第ではないかと思います。人に迷惑かける人の面倒を、文句言わず黙々世話して来た人が、死ぬ間際にちょっとくらい人に面倒かけたからって、誰も文句を言わないのではないでしょうか。文句を言ってるのは当事者に直接関係ないのに新聞やネットを読んで勝手な正義感で怒っている人ばかりです。
どう死にたくないか、に対してどう死にたいかという質問の答えがたいていあいまいですが、特別な瞬間だから、好きな事をしていたい、という位の気持ちがホンネかもしれません。誰も死んだ事が無いからよくわからないのです。その理屈だと「山で死ねたら本望」説は、そういう言葉がでる理由が分かります。「山で死にたいわけじゃないけど特別な瞬間には好きな山登りをしていたい」と言う位の意味でしょうか。しかし、人生の絶頂は死の瞬間で無くても良いわけで、その一日前に、もう死んでもいいくらいの幸福を味わったら、次の日が消化試合でもいいのではないかと僕は思います。
そして、自殺でもしない限り、死の間際の有り様は、本人に選ぶ権利はほとんどありません。どんな善行を積んできた人だって、むごい死に方をすることはあります。
だから、一瞬しかない死の間際の「苦しみ」や「多少の迷惑」などを気にせず朗らかに死ねるように、もっと長い人生を無駄にせず生きるべし、と思います。
だから、どんな死に方をしたいか?は愚問あるいはフェイクであって、本当の問いはどんな風に生きたいか?という問いなのです。

そして残される側にとっての死も。
どんな人にも親しい人との死の別れは必ずやってくる。その時に後悔したり、想像もしなかったと驚いたり、取材に来たマスコミに混乱した怒りをぶつけたり、様々です。残される側にとって他者の死は一瞬で終わらない。その後の人生は、死者との付き合いとして心を組み立て直さなければならない。親しく過ごした人との時間を慈しみ、大切なものであったと思えるようでありたい。
普段から、「この人とは明日、死に別れるかもしれない」「この食事が最後になるかもしれない」「きょうの仕事が、僕の遺作になるかもしれない」と、いつも思っています。これは本当です。それはやっぱり山登りでこれまで生と死に向き合ってきたからです。

人は何故山に登るのか。山には「死」があり、従って「生」があるからだ。下界には多くの場合それが無い。と、山の先輩が本に書いていました。

山は、どう振る舞えば生き残れるか予想がつかない危険があるところです。そういうところでどう振る舞うかの力を少しずつでも磨くところ。マニュアルやハウトゥーや、講習会で教わる事では対処できない内面から湧き出る能力、人にはかなわない大自然の殺気を畏怖し感知する能力を培いに行くところと僕は思います。

山登りが、行政や火山学者に危機管理された、安全な楽しいだけの娯楽ではない点は、誤解してはいけない一線だと思います。そういうものを頼りにして、あるいは税金払っているんだとカネの話までして、過度な要望や批判や責任追及をしても、ろくな結果にならないと思います。行政や基礎科学の研究者というのはもうかるからやっているわけではない。むしろカネにならなくても、誰かがやらなければならないからある仕事です。

火山の専門家が予測できなくてあたりまえと思います。こんな事まで科学の力で予言できると傲慢に思っているから日本中が原発だらけになってしまったのではないでしょうか。自分の足で火山を歩き回って自然科学の研究論文の一つも書いた事も無い、ネットでカチャカチャ調べただけのヒマな素人が、専門家を匿名で批判するような話ばかりで、今週はテレビ以上にネットを見るのが不愉快です。

話がそれました。人は昔よりマシな高度な科学技術や社会制度に守られていると錯覚していますが、荒ぶる神を恐れ、日々何度も祈り、謙虚に暮らしていた100年前の人よりも下等な精神世界に生きている可能性を、もう一度熟考した方がいい。そしてよき死のためにも、日々を大切に生きたい。親しい人と過ごす時間を大切にしたい。与えられた仕事を一生懸命やりたい。
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