山から降りて知らない町を駅まで歩く時、いつも思う事があります。昔、この町に初めて山を越えて来た人が、どんな目で見てここに住もうと決めたのか。その頃と変わらないと思われる山と谷、丘陵の形から、千年前、二千年前を想像します。人は、山が平地に接するところを好んで来たと思います。昔の街道はくねくねと、山裾の部落を繋いで延びています。山に近ければ水もきれいで薪や炭、蔓や竹など何でも手に入るし強い風もよけられます。21世紀の今そういうところは狭い土地に古い家が空き家になっていて老人しか住んでいません。車で時々通りかかると、なんでわざわざこんなところに住んでいるのだなどと言う人が多いです。しかし都市の流通が保証されなかった時代は、ここが生き易いから住んでいたのだと思います。
最近では戦争に負けて外地から帰還した仕事もなにも無い人が、山裾に炭焼き窯を作っていた話を聞きました。今は山中となっている登山道脇などには、戦国時代の逸話や史跡が多いです。戦乱の時代、人は安全のためと糧のために山裾、山際、山中に住んでいたのではないかな。
大きな平野の都市、江戸、大阪、名古屋が栄えるのは徳川の平和で流通が保証され始めた時代以降です。それまで16世紀までの日本人が住んでいたのはどれも山の近い盆地です。首都は西日本最大の盆地である京都でした。
転勤であちこちの町に住んで見ていると、敗戦後の日本は田をつぶして宅地を広げています。過去何千年も人が住まなかった土地に出来た住宅街は10年くらいの世代が変わると入居が無くなり、世代限りになって滅びて行きます。戦後はもう70年になりますが、科学技術でそれまでは住めなかった地形を加工して宅地にして来ましたが、100年に一度の災害にはかなわないものです。昔住んだ人も、住めない事が分かって出て行った土地なのです。戦後できた町には神社仏閣がありません。戦前は新しい入植地には必ず神社を建てましたが、戦後のニュータウンではなくなりました。
神様がいないから危ないというわけではありませんが、神に祈る謙虚な心を忘れて(自然災害の猛威に対する)奢った考えで行われた造成である可能性も高いのではないでしょうか。
古くから災害の無かった集落には、古い神社や寺、古墳が残っています。そういうところに目が慣れると、山越えして降りて来て風景を見渡し、住んでみたいなあ、という気分になります。
おはようございます。久しぶりの江戸のホテルで朝ごはんお代わり3回転してます。
法事でいろいろ昔話を聞くと面白いはなしが、祖母が生前住んでた家は港の中にあり、子供の頃から台風とか大丈夫?なんで港に家たてたの?と不思議でしたが、曽祖父が材木を切り出して港に運んでいたときの倉庫を、祖父が戦死した時にもらって住み着いていたのでした。港湾の安全と、商売繁盛のためか、港には、我が家専用の荒神さんの祠もあります。子供の時は、まさか、自分とこ専用とか知らなかった。他にも、男しか入れない田んぼがあり、出来た稲わらで大蛇を結って、村の神社に奉納したとか、父が学生時代、海洋実習中セイロン沖で盲腸になったんですが、SOSを出したら、たまたま、学校の先輩の乗った船がセイロン沖をはしっていて、たまたま、その船に産婦人科?のドクターが乗船していて、手術して貰えたんですが、その時も、遠く離れた島根県で、曽祖母率いる村中で、父を死なせないための祈祷を金比羅神社でしてたらしいです。神様がどくとるマンボウを派遣してくれたのが間に合いましてよかったです。私は新興住宅地に住んでますし、村中で祈祷してくれる近所付き合いもないので何かあっても村の神様は来てくれないですね。
まろさん
海辺でも、やはり古い集落は丘の上で、浜は作業場どまりなのでしょうね。祈祷の現実的な効能までは、僕の推理ではわかりませんが、もしかするとそういう力も存在するかも知れませんね。近所付き合いはこれから築けばよいかとおもいますよ。
雷も滑沢もいいところでしたね。
私が電車で寝ぼけてる間にこんな日記書いていたとは。
いつの日か乱世が訪れれば、人は街を捨て山に帰るのかもしれません。うまい水と心地よい風のある土地、見つけてくださいな
滑沢のリンク先見たら、少し前までいい感じの小学校分校があったのね。滅びたけれど裏の杉林はよほど手入れがされていました。あの立派な越境道路で通っているのだろうか。
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